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学芸員だより Curator's Essay


このコーナーは当館の学芸員が、茨城県近代美術館の所蔵品や企画した展覧会などに関連して、日頃から研究している内容を
解り易く紹介するものです。



通信No.18(2012.4.13)
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「白牙会」誕生の舞台ウラ 〜茨城県内洋画家による全県的な公募展のはじまり〜



「茨城県下に、明確な事業目標を持った美術団体が誕生したのは、大正一三年に、水戸市に結成された白牙会をもって嚆矢とする。」(『茨城の美術史』1972年、茨城県立美術博物館、356頁)


 今から約90年前の1924(大正13)年、水戸に3人の洋画家、菊池五郎、寺門幸蔵、林正三が集い、美術団体「白牙会」を結成した。日本に油絵が本格的に移入されて約半世紀、東京美術学校(東京藝術大学の前身)に西洋画科が設置(1896年)されて約30年が経とうとしている。

 これ以前にも県内に洋画家のグループはいくつか存在し、展覧会を開催していた。しかし、東京美術学校を卒業した“新進”画家が開く“玄人”展との触れ込みで誕生した白牙会による展覧会は、それまでのグループ展とは一線を画するものとしてメンバーは意識し、周囲もそれと認識した。特に活動の初期において、創立メンバーは展覧会に数点の作品を出品して意欲をみせたほか、公募作品を広く募り、さらには在京作家にも協力を依頼して各戸を訪ね、作品を借用してまわった。さらには、作家や日仏芸術社からロダンやマチスなど西洋美術作品をも借り受けて特別に展示するなど、メンバーの献身的な活動が会を支えていた。そして展覧会は多くの来場者を迎え、大いに盛況であった。

 戦前は1942(昭和17)年の第14回展まで開催、戦後は1946(昭和21)年の第15回展から再開した。回を重ねる中で、実力が認められる若手作家は会友から会員へと登用し、徐々に会は育っていった。ただし1948(昭和23)年からは県および新聞社主催による茨城県美術展覧会(県展)が開催されたことから、全県的な展覧会としての意義は同展に譲ることとなる。さらに翌年には会員の一部が脱退して解散、新体制での再興を余儀なくされ、1950(昭和25)年には3人の創立メンバー全てが没する。これらを一つの区切りとするならば、創立目的を充分に果たして活動を終息したといえよう。1924(大正13)年の発足から四半世紀にわたり、県や新聞社の主催ではなく作家自身が運営した会により、主に洋画部のみではあるが、一地方における総合的な展覧会活動が保たれたことは特筆される。

 メンバーが、会のために労力と時間を費やすことができたことには理由があった。東京から故郷茨城に戻り、美術、特に洋画をめぐる現状について中央と地方の隔たりを知った彼らは、県内画壇の醸成、後進の育成を使命と考えた。また、県内では先んじて1923(大正12)年、日本画に出品を限定した茨城美術展が新聞社主催により開設され、焦燥感にかられたであろうことも想像される。白牙会の中心となって活躍した菊池五郎は、この後も本県美術行政に深くかかわり、1947(昭和22)年開館の茨城県立美術博物館(茨城県近代美術館の前身)の設立準備に奔走、館長をもつとめた。さらには1948年の県展発足にも尽力する。

 さて、白牙会は茨城の近代美術史上、重要な役割を担ったと言えるが、会の活動、さらには創立メンバーの画業について現在、詳らかでない。理由は幾つか挙げられようが、会の活動が何らかの主義主張を持つものでなく展覧会という場の提供を主目的としたこと、あるいは創立メンバーであった菊池五郎、寺門幸蔵、林正三の3人が戦後すぐに没して比較的短命であったこと、県の美術館に作品の所蔵が殆ど無いことなどが挙げられる。
 ただし、白牙会については、(財)常陽藝文センター主催により、水戸市内の藝文ギャラリーにおいて「茨城洋画の黎明展〜白牙会の画家たち〜」が1988(昭和63)年に開催され、関係作家27名の作品38点が出品された。同センターではまた、展覧会に先駆けて雑誌『常陽藝文』51号(1987年8月)で白牙会の特集を組んでいる。白牙会については同展及び同誌、そして冒頭に引用した茨城県立美術博物館(茨城県近代美術館の前身)の編集による『茨城の美術史』(1972年)が主要な先行研究となる。

 白牙会の歴代の出品作家は県内作家に限っても300人を下らない。裾野の広さを実感される数字であるが、現在、これらすべてを追跡することは適わない。失われた作品が多い一方で、現在までも遺族などの手許に伝わる作品も少なくないだろう。会の出品作家や作品についての研究は今後の課題として、まずは文献資料から、白牙会結成当時の状況について、ここに紹介する。


T 発会式までの道程

 現在、当館の本館である茨城県近代美術館には、『白牙会録』(以下、会録)と題する会の日誌が伝わっている。同誌には、会の名称を決めて始動した1924(大正13)年9月7日から、第1回展閉幕後の後処理として11月14日までの様子が詳しく記録されている(第1回展閉幕後は断続的に1926年10月28日まで記載有り。別に会計簿もあった模様)。
 白牙会の発足を検証するため、ここでは内容を要約して紹介し、会録に付された新聞記事や展覧会の規約、出品目録などの資料を参照しながら、適宜補足を加えていきたい。

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−会録より−
○1924(大正13)年9月7日(日)
 林正三と寺門幸蔵が連れ立って菊池五郎宅を訪問。以前より構想のあった秋の展覧会について、時日が切迫していることから、今日より直ちに実行に移ることを決め、具体案と予定表を作成。会の名称については、この春より苦しんだが、「白牙会」に決める。
○1924(大正13)年9月8日(月)
 予定表では、夏の初めに協議しておいた会則草案を林が自宅で整理し、夜に石川原の林宅に集まり協議することとなっており、その通りに実行。第1条にかなり苦しむものの、橘氏の助言もあり、林の草稿を採用することに決定。11時、松虫の音が降るような朧月夜の石川原を辞去。
○1924(大正13)年9月9日(火)
 会則原稿を印刷所に渡して交渉。寺門と菊池で、黒光社の事務所へ内藤正明をたずね、白牙会創立の挨拶をする。

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※『白牙会録』及び新聞・雑誌等の引用文について、旧漢字及び旧仮名遣いは現行のものに改めた。また、明らかな誤字・
 脱字等は適宜訂正し、句読点や送り仮名なども一部訂正した。


@) 白牙会、誕生

 会録によれば、白牙会は、菊池五郎(1885-1950)、林正三(1893-1947)、寺門幸蔵(1895-1945)の3人が、水戸での展覧会開催を企図して興した会であった。この3人は水戸市近郊の生まれであり、かつ東京の画学校や美術学校に学んだ点で共通している。林は、1917(大正6)年の東京美術学校卒業後に帰水していたが、菊池と寺門が1923(大正12)年の関東大震災に遭い帰水したため、3者が水戸に会したのである。地方から上京した若者にとって、関東一円に甚大な被害をもたらしたこの震災は、このまま踏みとどまるか、故郷に帰るかの選択を迫る契機となったと思われる。

 菊池宅に集まった1924(大正13)年9月7日、思い立ったが吉日とばかり、3人は展覧会開催に向けて踏み出した。この年、最年長の菊池が39歳、林が31歳、寺門が29歳になる。以下に略歴を記す。

 菊池五郎(1885-1950)
  水戸市生まれ。長兄は小説家菊池清(幽芳)。中学校卒業後に上京、白馬会第二研究所(菊坂洋画研究所)に学ぶ。1906
 (明治39)年東京美術学校西洋画科に入学、1911(明治44)年に卒業。1923(大正12)年の関東大震災により、向島の水戸徳
 川家邸内に有したアトリエを焼失して帰水。

 林正三(1893-1947)
  水戸市生まれ。水戸中学校卒業後、上京して東京美術学校に入学。1917(大正6)年に同校卒業後は、在学中に交流を深
 めた同郷の橘孝三郎が水戸で経営する農園(兄弟村)に住む。

 寺門幸蔵(1895-1945)
  那珂市(旧瓜連町)生まれ。高等小学校卒業後に上京、白馬会の葵橋洋画研究所に学ぶ。1920年召集、シベリア出兵など
 を経て除隊。大震災により帰水。




白牙会創立会員(大正13年)
前列左から斎藤勇太郎、菊池五郎、寺門幸蔵、後列左、林正三。
テーブル上の冊子が『白牙会録』。
(『茨城の美術史』茨城県立美術博物館ほか、1972年より転載)
 以前からも構想があったというように、東京から故郷茨城に戻った3人が会して意気投合し、遅くとも春頃には美術団体の設立について語り合っていたようである。夏には会則も協議していたが、そのままになっており、秋の展覧会開催に向けて一歩踏み出した。設立へと至った経緯としては、美術家、特に洋画家をとりまく地方の状況を目の当たりにして、自らが先導する覚悟を固めたといえるのではないか。
 1886(明治19)年に茨城県師範学校及び水戸中学の図画教員として赴任して来た建部元一郎によると、赴任当時は「洋画を描く人はおろか、油絵一枚持っている人もなし、画用紙の碌な物さえ売っていなかった」という。しかし、白牙会結成の頃には、「大分洋画の趣味が普及」されたように感じられ、「洋画を書く人もポツポツ出る様になり、また書斎や客間へ洋画を飾る人も多く」なり、「今では紳士とでも言われる人は大抵一面や二面の油絵を懸けて置かぬのは無い様」だ、と述べている(建部元一郎(談)「注目される洋画趣味の勃興 美術学校も始は邦画のみ 明治十九年頃の水戸」『いはらき』1924年9月20日)。

 白牙会の結成前夜、水戸では大正6、7年頃に誕生した「水戸洋画研究会」が「黒光社」と改称して活動していた。そこで菊池も帰水後すぐは黒光社に出品したが、「会の空気があまりにあまい」ことから白牙会結成に至ったという(菊池五郎「回顧寸感」『白牙会 二十五周年記念の栞』1950年)。また、新聞社のインタビューに答えて「アマツールの方達が主催する黒光社」(「洋画研究団『白牙会』水戸専門家の団体」『いはらき』1924年9月19日)と率直にも述べており、菊池には同好会的な集まりと感じられたようである。当時の新聞は、菊池ら白牙会員の意気込みをそのまま伝え、「さきの黒光社展が素人の作品として特殊の余韻を伝えたのに比し、今回は美術学校出身の新進同人たちが開く玄人展である」(「白牙会生る」『東京日日新聞』1924年10月24日)、などと報じた。
 両団体の関係は詳らかでないが、白牙会の結成2日後には早速、菊池と寺門が会を代表して先輩格の黒光社を訪ね、挨拶を済ませた。黒光社会員の和知忠恒と吾妻重は1936年頃より白牙会に参加し、和知は1940年に会員となった。

 他方で、県内の日本画界をみると、水戸市出身の横山大観や笠間市出身の木村武山など日本美術院の中心作家、さらには1914(大正3)年の日本美術院再興に尽力した斉藤隆三らの活躍が目立ち、1923(大正12)年には日本画に出品を限定した展覧会「茨城美術展」が、いはらき新聞社主催により開催されて大いに注目を集めていた。白牙会の結成は、こうした動きに抗して洋画界を盛り上げるべく奮起したという側面も多分にあるだろう。洋画家が集い、切磋琢磨する場が希求された。菊池五郎は、インタビューに答え、白牙会の結成意図について次のように述べている。

 「特に主義主張があってと云う訳でもありませんが、魚でも住むに適した水でなければ育たないように吾々絵かきも、日常吾々に適した雰囲気を切に要求して居るのです/お互いに純な藝術感を語り合い、時には動もすると、矛盾し易い世間苦からの悶えをも慰め合い、及ばずながらも、一歩でも自分達の使命に進撃したい……そう云う吾々内的の希望やまた吾々の郷土の為、その郷土芸術の芽生えを助ける埋草ともなろう、音は悪くも持合せの鐘を敲いてその一筋途を押して行うと云うような奮発心から微力ながらも団結して水戸の一角に芸術的雰囲気を醸し出そうと云う同人の誰もが抱いて居た希望の一致がこの会を成立さしたに過ぎません」(「洋画研究団『白牙会』水戸専門家の団体」『いはらき』1924年9月19日)。

 このように白牙会は、わずか3人とはいえ気力共に充実した青年が、自らの主義主張のためでなく、県内画壇の育成のために「埋草」ともなろうとの思いで作り上げた会であった。


A) 「白牙会」の由来

 「白牙会」という名称については、会録に「伯牙断琴の古事の思い出もよく、白画・・・白芽・・・にも通じ三人大いに悦に入る、會の名称に就いてはこの春以来ずい分苦しんだものだった」と記されている。
 この「伯牙断琴」とは、琴の名手伯牙が、自分の琴を唯ひとり解する鐘子期の死に遭い、弦をみずから断って生涯奏することがなかった、という中国の故事に由来する。きわめて親密な交友・友情のことをいう「断琴の交わり」の語源であり、美術を解する同志が集って誕生した経緯からも、相応しい名前であった。
 寺門の発言で決したといい、新聞のインタビューに答えて菊池五郎は、「敢えて鐘子期を待つと気取って居るわけじゃありません。白画……デッサンと言う意味にも、どこか通ずるし面白いと思いますが、会の事業として第一に着手したいのが研究所の設立ですが何しろ資金が先立つので目下疑議中です。それまでは自分の工房をそれにあてて不自由を忍びます。」(「洋画研究団『白牙会』水戸専門家の団体」『いはらき』1924年9月19日)と述べている。
 これにより、「はくが」という音に、「伯牙」や「白画」(=白描画。墨一色で描かれた絵)をかけており、デッサンなどを講習する研究所設立をも当初から念頭においていたことがうかがえる。(吉田衣里)

(その2につづく)









通信No.17(2012.3.17)
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榎戸庄衛展補遺 〜菅井習宛の書簡から〜



 2011年秋、当館では本県出身の洋画家、榎戸庄衛(1908-1994)の個展を開催しました。その会期中、榎戸と交流のあった菅井習(すがい・ならう)氏のご遺族のご好意で、氏に宛てた榎戸庄衛の書簡35通を拝見する機会を得ました。それらを通読したところ、本展図録作成時には疑問のままであった、榎戸が太田に移り住んだ理由の一端が理解されたため、ここに補足したいと思います。

 なお、榎戸庄衛の経歴及び作品については、当館ホームページ「企画展」及び「展覧会出品作品の解説」の項をご参照ください(図録は完売しました)。




なぜ、太田に仮寓したのか?
 1908(明治41)年、桜川市岩瀬(旧岩瀬町)に生まれた榎戸庄衛は、17歳になる1925(大正14)年に上京した後、東京を拠点に画家としての道を歩んだ。茨城へ戻ってきたのは、終戦をまたぐ約4年間と、晩年の1975(昭和50)年以降のみであり、経歴のみで判断すると本県との交流は極めて薄いように思われる。しかしながら、この終戦前後の帰郷を通して地域の人々との交わりを深くした様子が、菅井宛書簡からも明らかになってきた。

 また、この時期は、榎戸の画業においてきわめて重要な時期に当たっている。榎戸は、1944(昭和19)年、戦火を逃れて東京から岩瀬の実家へと疎開したが、終戦の放送を聞いた後、すぐに常陸太田市馬場町(旧久慈郡誉田村大字馬場)へと移り住む。そして、この太田仮寓を終えて再上京した後、画風は具象から抽象へ大きく転換する。つまり太田時代は、その醸成期間であった。さらには、同地の人々と繁く交流して美術団体「常北美術協会」結成にまでこぎ着けた。余所者が突然移り住んだというだけで、ここまで充実した日々を送ることができたであろうか。
 そして何より、なぜ戦後の混乱期に実家のある岩瀬を離れ、わずか3年間の仮住まいであったが、太田に移り住んだのだろうか。

※久慈郡太田町に近い誉田村大字馬場についても、榎戸は「太田」と呼び習わしていることから、ここでは、旧太田町に同地を含めて「太田」と表記する


A…岩瀬の生家
B…太田の仮寓先
          

 榎戸は、太田に住む菅井に宛てた書簡(昭和20年5月8日付)の中で、次のように記している。
「太田は美術の香の高き所、矢張り一月に一回位は、お邪魔したいものです」@

 故郷の旧岩瀬町に疎開していた榎戸は、太田に住む知人・菅井習を訪ねた後、書簡をしたため、太田を「美術の香の高き所」と評した。古い歴史と豊かな自然を有するこの地を気に入った様子がうかがえる。宛先に記された菅井の住所は、久慈郡誉田村馬場となっており、後に榎戸が仮寓する地である。

 ところで、この書簡は、菅井からの書簡に対する返信であった。菅井からの書簡は未見だが、「御忠言」が末尾に記されていたようであり、対する榎戸の答えが、この5月8日付けの書簡中に、「画家は死ぬまで勉強、画道追求であり、その点は深く期しているが、なお先生の御言葉は、頂門の一針として頂戴した」Aと記されている。榎戸にとって菅井は、美術について、また自らが志す「画道」について深く語り合うほどの親しい友人であったのだろう。今回拝見した35通の書簡中、最も早いものは昭和19年6月16日の日付を有し、戦前から両者の交流が始まっていたことが分かる。榎戸が抱いた「美術の香の高き所」という「太田」観は、美術について高い見識を有していたと思われる菅井習、その人に寄せた信頼に依るものでもあろう。


@昭和20年5月8日付)

A(昭和20年5月8日付)

  @「何に致せ太田は美術の香の高き所矢張り一月に一回位は御邪魔致し度ものに御座候」
  A「画家は死する迄これ勉強画道追求に御座候て其の点深く期する所有之候へ共尚先生の御言葉頂門の一針として頂戴仕候」



太田への移住

 1月に1回位は訪問したいという希望は、一時的にせよ、同地への移住へと発展した。榎戸は、昭和20年8月に岩瀬で終戦を迎えた後、菅井が暮らす久慈郡誉田村馬場の地に住まいを移す。菅井との交流を楽しみにしたであろうが、戦前より同地に暮らした菅井は、昭和21年度より県立水海道女子高等学校(現在の県立水海道第二高等学校)へ校長として転任となった。県南部への異動に伴い、菅井は住まいも結城郡水海道町へと移さざるを得なかった。榎戸は、書簡(昭和21年6月16日付)において、「先生の太田引揚は寂しき事」と記している。

愛陶会
 さて、書簡からは榎戸と菅井の交流の様子がうかがえるが、両者共通の趣味である骨董蒐集が、彼らの結びつきを深くした。戦前より水戸を中心にして、骨董愛好者が集う「鑑賞会」が行われており、両者は積極的に参加していたようである。

 書簡(昭和19年6月27日付)には、「鑑賞会」が稀にみる盛況ぶりで「生みの親」たる榎戸にとって「面目躍如」であった、と記している。また、「愛陶会」という名称の使用もみられるが、活動の詳細は不明である。参会したのは榎戸、菅井をはじめ、水戸在住の横須賀忠雄、同じく水戸で眼科医を営んでいた山上鎮夫などであった。仲間内では、お互いの家を行き来して蒐集の品々を戦利品のように見せ合い、意見し合い、時に相手から良品を「強奪」するように譲り受け、楽しんだようである。以下、書簡に記された内容を要約する。

・昭和21年6月16日付
 近頃は「茶わん熱」にうかされている。水戸の陶古庵(横須賀忠雄)、竹内兄弟と陶器を語った。
・昭和21年11月27日付
 次回の月例会は太田開催であることから、太田に住む山上鎮夫と相談したが、榎戸宅で開催したい。
・昭和23年3月3日付
 水戸に戻った山上鎮夫宅を訪問、山上が入手した古九谷を見る。
・昭和25年4月6日付
 「愛陶会も久方振、是亦楽しき一日」。

 骨董鑑賞会は陶器が主であったようだ。会合は1940年代に頻繁に開催され、少なくとも榎戸は1950年頃まで積極的に参加したと思われる。
                               書簡(昭和25年4月6日付)より

友人として、支援者として
 今回拝見した書簡は、昭和19年6月27日から昭和45年2月20日付のものであるが、その大半は昭和20年代のものである。これら35通以外にも往還された書簡は少なくないと思われ、榎戸と菅井の交流は、戦前から戦後にかけて、それぞれ住まいを東京と土浦に移した後も、25年以上にわたり続けられたことがうかがえる。

 書簡中、初期には骨董談義が多いが、次第に、榎戸の作品の斡旋や有力者の紹介などの記述も増え、友人として、菅井が継続的に画家を支援した様子がうかがえる。

 榎戸の画歴は1927年頃より始まる。茨城県立笠間農学校(現在の県立笠間高等学校)を卒業後に上京し、速記者として生計を立てながら太平洋画会研究所(後の太平洋美術学校)に入所した。戦前は、具象画を描いて官展で入選を繰り返し、太田仮寓の頃には、東京で活躍する洋画家として県内でも一目置かれるようになっていた。しかし終戦を機に職を辞し、具象から抽象へと画風を転換、さらには既成の美術団体から距離を置くことを決意したことにより、順調に思えた画家としての道のりは一転して厳しさを増した。

 こうした転機を経て長く交流を深めた菅井は、共通の趣味を持つ友人であり、良き理解者であったのだろう。書簡(昭和43年7月11日付)では、榎戸を支援しようとした菅井へ「友情を感謝」すると共に、自らは「前衛作家」であり、「官選画家たらん事をいさぎよしとしない」といった決意を語っている。

むすび
 榎戸のように、地方から東京に出て活躍する多くの作家にとって、故郷との繋がりは強みとなり、支えとなるだろう。しかしながら同地の人々との深い交流なくしては、追懐の場所に過ぎないかもしれない。強い信念のもと東京で画業を通した榎戸と故郷との結びつきを垣間見た、35通の書簡であった。(吉田衣里)

※ 文中、引用文については適宜句読点を補い、要約した。





通信No.16(2011.5.27)
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カミーユ・ピサロ「グラット=コックの丘からの眺め、ポントワーズ」をめぐるよもやま話



          カミーユ・ピサロ(1830−1903) 「グラット=コックの丘からの眺め、ポントワーズ」 1878年
          油彩・麻布 55×65cm (株)常陽銀行寄贈







                                ピサロ「グラット=コックの丘からの眺め、ポントワーズ」(部分)




                                              ★エルミタージュ地区のピサロが住んだ所








通信No.15(2011.1.6)
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中西利雄「彫刻と女」とそのエスキース




図1  「彫刻と女」  昭和14年(1939)  水彩・麻布 91×117cm 

図2  修復前の「彫刻と女」


図3  「彫刻と女 エスキース」 昭和14年(1939)
     水彩・紙 49×63cm 


 茨城県近代美術館が所蔵する中西利雄(1900〜1948)の「彫刻と女」(図1)は、水彩画の革新者といわれる彼の代表作のひとつとして知られている。
 この作品は茨城県近代美術館の所蔵となる以前、不幸にして雨漏りの水がかかり大きなシミが出来てしまったことに加え、湿気により点々とカビが発生してしまっていた(図2)。1990(平成2)年度に行われた修復により、図1のようにほぼ元の姿に甦ったが、本作品はしばしば刊行物等に掲載されてきたため、1990年以前の出版物で、修復前の図版しかご覧になったことのない方もいらっしゃるかも知れない。

 周知のように中西は、留学を経てデッサンの重要性を再認識するとともに、透明画法に不透明画法を加えた色彩研究や、水彩には向かないとされていた人物画への取り組み等で、昭和前半の水彩画界に新風を吹き込んだ。それまでの日本の水彩画における主題は風景と静物が中心であり(勿論人物を主題とした作品がないわけではないが、それらは油彩画家が水彩で人物を描いた場合が多く、いわゆる「水彩画家」が人物を主題とすることはあまりなかったのである)、中西の確かなデッサンと色彩研究に裏打ちされた人物への挑戦は、油彩画に勝るとも劣らない強い表現を可能にしたいという、画家の意欲の顕れでもあった。

 「彫刻と女」は東京府美術館(1943年からは東京都美術館)の彫刻室に佇む女性を描いた作品である。この美術館の建物は1926年に上野公園内に建てられ、1975年に今日の東京都美術館の建物(2010年現在改修工事中)にとって代わられるまでの間、約50年にわたり数多くの展覧会がここで開催された。
 この作品は、中西たちが「反官展・反アカデミック」をうたい1936年に結成した新制作派協会の第4回展に出品されたが、同展が開催されたのも、言うまでもなくこの美術館である。
 灰色を基調とした彫刻室の冷たさが支配する画面にあって、黄色い和服を着た女性が鮮やかに浮かび上がるこの作品は、当時の水彩画としては比較的大きな画面に描かれ、人物はほぼ等身大である。
 この作品の制作過程について、画家自身は次のように述べている。

 冷たい彫刻の並んだ中に黄色の暖かい和服の人物を立たせた―そのような主題で五十号に人物をほぼ等身大に扱って描いたのであるが、水絵具で等身大近い大きさに人物を描くことは非常に難しいものである。人物の顔の部分は透明に扱ってあるが、衣服、帯等は可成白を使用して不透明に描いた。人物の姿勢(ポーズ)は嫌味なものになるのを警戒して何枚もエスキースを作って研究したが、手を下げただけではなんとも単調なので、こんな一寸手を上げた多少意味あり気なものになって了った。水彩キャンバスを使用して制作中何度も洗って又描き込んで居る。五十号に於けるこの位の大きさの人物の取扱いには白色入りの追求は避けられないように思う。然し重い妙に暗い感覚のものにならないように注意しなければならない。水絵の大作の場合、調子だけでは画面がもたないので、線を使ってものの形を描いて絵を纏めようとする傾向が生じ易い。線を用いて纏めることが悪い訳ではないが、そんな場合その用いられる線に対しては厳しい美しさが要求されるのを覚悟しなければならない。(中西利雄『水繪―技法と随想』綜合美術研究所1943年 pp.292-293 本文中の旧かな・旧漢字は現在読みに改めた)

 ここから、中西が、@人物の顔の部分と衣服・帯等の部分で透明画法と不透明画法を使い分けていること A人物のポーズを決めるまでに、幾度もエスキースを描いて研究したこと B水彩用のカンヴァスに描いては洗ってまた描き込むという作業を繰り返し描き込んで重厚感を出していったことがうかがい知れるが、2008(平成20)年度に茨城県近代美術館へ寄贈された「彫刻と女 エスキース」(図3)により、上記に至るまでの、画家の試行錯誤の一端が明らかになった。

 筆者は1997〜98年に茨城県近代美術館で開催された「没後50年 水彩画の革新者 中西利雄展」を担当して以来、画家のご遺族には大変お世話になっているのだが、2008年、ご遺族のところへあらためて調査にお伺いした際、新たに見せていただいたのがこのエスキースで、「彫刻と女」の制作過程に関する貴重な資料ということで、初期の風景画とともに寄贈していただくことになったのであった(茨城県近代美術館ではこれまでにもご遺族から多くの作品を寄贈していただいている)。

 完成作とエスキースの一番大きな違いは、エスキースではモデルが二人いるという点である。また単にモデルの数が二人から一人に減ったというたけでなく、モデルの手前にあった彫刻は取り去られ、モデルの画面上での配置がより手前になり、画面に占めるモデルの比率も大きくなった。さらに、完成作では背景全面が「壁」になっているが、エスキースには彫刻室の「出入口」も描かれている。彫刻の一体一体について見ると、概ねエスキースと同じ彫刻が完成作にも見られるものの、配置や彫刻自体の形状はずっと洗練され、余計なものは取り去られている。上述した画家自身の「線を用いて纏めることが悪い訳ではないが、そんな場合その用いられる線に対しては厳しい美しさが要求されるのを覚悟しなければならない」という言葉のように、背景の彫刻一体一体について描出する線を吟味し配置を調整することで、独特の緊張感が生まれ、中央の人物との見事な構成の妙が生み出された。 

 このエスキースが完成作の構図を決める以前のものであるということ以外、制作のどの段階のものかは不明だが、少なくとも、画家は構図確定までの間、モデルの数も含めた試行錯誤を繰り返していたことがわかる。そしてモデルの配置を一人にしてからも、画家自身が記しているように、最終的なモデルのポーズ決定までに、何枚ものエスキースを重ねたわけだ。

 一般に水彩画は、水墨画等と同様、油彩画のような「塗重ね」や「上からの描きなおし」がきかない。中西の作品にもいえることだが、一気呵成に迷いなく引かれた線や筆致が、水彩画の瑞々しさを引き立たせ、作品の魅力になっていることも多い。だからこそ、画家は数多くのエスキースにより試行錯誤を重ね、本制作に際して、迷いのない筆致で描けるよう臨むのである。水彩カンヴァスに描かれたこの「彫刻と女」は、何度も洗って描き込まれているが、それは「重厚感」をだすためであり、迷った描線等を洗って描きなおすためではないことは言うまでもない。こうして完成された作品の描線は生き生きと輝き、油絵に劣らない重厚感・力強さをたたえながらも、水彩ならではの瑞々しさを併せ持つ、この画家ならではの世界が作られた。

 「彫刻と女 エスキース」は1枚のエスキースではあるが、こうして画家の代表作の制作過程をより明らかなものにするとともに、我々に様々な示唆を与えてくれるのである。(山口和子)

通信No.14(2009.10.24)
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しんかいぎょくほ
戦後漆芸史の転換期発泡スチロール胎乾漆オブジェの先駆者・新海玉豊の試み



 
今日、笹井史恵のような発泡スチロールを型や胎として造形的な乾漆作品を制作する作家は少なくない。笹井の先輩に当たる栗本夏樹は既に1980年代に単体で高さ2mを越える力強い作品を発表し注目されている。しかし、こうした現代の乾漆表現が、どのような背景の中で生み出されてきたのかについては殆ど知られていない。それは例えば別の工芸領域である陶芸の世界で、所謂オブジェが1948年には既に林康夫によって手捻りで作られ始めていることが明らかにされている状況と比べても驚くべきことである。
 
 今回、発泡スチロール胎乾漆オブジェの作家を辿っていく中で、一人の重要な作家が浮上した。新海玉豊(しんかい・ぎょくほ 1939- )である。神戸出身の新海は1961年、京都市立美術大学工芸科を卒業後、1963年から2004年まで同大の漆工指導にあたった。阪神大震災に遭い、アトリエを岡山県に移し、現在は同地で制作している(註)。

 新海は14代続く医師の家に生まれたが、姉が学んでいた漆に興味を持ち、京都美大の漆工専攻に入学。当時、漆工は蒔絵を中心とするカリキュラムであった。ボディは製図して木地師に発注し、それに塗りや加飾を施すことが漆工の課題である。分業の発達した漆工界で、木地作りや塗りは職人の仕事であり、最後の蒔絵をする者のみサインが許されるような状況もあった。その頃のカリキュラムは1回生がパネル、2回生が盆、3回生が手箱。それらを高蒔絵や研ぎ出し蒔絵等で加飾することが課せられた。

 しかし新海はお仕着せの形に蒔絵というパターンに疑問を抱く。自分で胎から作りたいと考え、本などを読んで勉強し、粘土原型に和紙を貼り、さらに生漆で麻布を貼り重ね最終的に粘土を抜く脱乾漆を試みた。最初は造形的な花瓶、次に蓋物。粘土原型ではなく木地のボディを自分で作ることにも挑戦した。しかし、少し大きいものを作ろうとすると粘土原型は重量が負担となり、また石膏の割り型も扱いが困難である。木地もボリュームを出そうとすると、割れや変形が生じ易い。

 何かないかと考えあぐねていた折、発泡スチロールという素材を知った。1950年代末に日本でも生産が始まった化学素材である。丁度、資材として普及し始める1960年代に新海は大学を卒業、1965年頃から研究を始めている。製図等はせず、木炭などでブロックにラフな線を描き、感覚的に形をカットしていく。当時はまだニクロム線などが普及しておらず、木材用の鋸で大まかに切断し、金ブラシなどで面を削り出した。表面は呂色仕上やため塗りなどで曲面の美しさを活かしていく。

 1969年、京都、紅画廊の個展で新海はこうした発泡スチロール胎乾漆オブジェを発表(挿図1、2)。それら閉じた曲面で構成される作品は内部には発泡スチロールを残したままとした。強度のうえでも視覚的にも「脱乾漆」にする必要はないと考えたからである。その自由な曲面の立体が発泡スチロール胎であることが知られると、番浦省吾ら多くの漆芸作家から厳しく批判された。一方で漆以外の領域の八木一夫や堀内正和は大いに評価したという。京都の圧倒的な伝統の中で、これも京都らしい他分野領域の作家たちとの交流は、新海の実験的な造形を促したのである。

 折しもその発泡スチロール胎乾漆オブジェの個展を開いた1969年に学園紛争が起き、改革試案のもと京都芸大の漆芸カリキュラムは加飾、木地、きゅう漆、そして発泡スチロール胎を含む造形表現(新海が担当)となる。つまり蒔絵に代表される華やかな表面装飾や意匠中心の指導から、形態を自分で作る造形重視、換言すれば“より実材的な表現としての漆芸”の方向へ、大きく転換したのである。

 それはまた漆の「塗り」そのものの可能性を見直すことでもあった。京都市立芸術大学は日本で唯一、大学の漆工教育の中に発泡スチロール胎乾漆造形を正式に導入し位置付けた大学となっている。新海の1969年の個展は、そうした乾漆造形の可能性を切り拓く大きなきっかけとなった漆芸史上エポックメーキングな試みの一つとして記されてよいだろう。
(外舘和子)


図1 1969年新海玉豊の個展案内

図2 1969年の個展で発表された新海玉豊の発泡スチロール胎乾漆作品の一部(手前と右)

註:2009年7月22日於岡山県、新海玉豊への筆者インタビュー。








通信No.13(2008.10.9)
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永瀬義郎の署名


 今、当館では茨城県近代美術館の所蔵品展が開催されています(*)。
県南・県西地方に大変ゆかりがあり、全国的にも有名な3人―油彩画の安藤信哉、水彩画の小堀進、版画の永瀬義郎の3人―にスポットを当てた展示です。

 このうち、永瀬については、当館でもポスターなどで<Yoshiro>と表記していますが、今回の展示されている作品を見ると明らかに<G.Nagase>などと表記されていることが分かります。<Y.Nagase>ではなく、<G.Nagase>です。

 はて、これは、永瀬義郎の作品または署名なのだろうか、作品の疑い深いまたは注意深い鑑賞者は、そんな疑問が湧き起こるかもしれません。 確かに<Y>の筆記体と<G>の筆記体は、書き癖によって、人によっては似たような形になってしまうことがあるので、あれは<G>でなく本当は<Y>なのだよ、と自分で納得してしまってはいけません。そう思うなら、他の作品も観察して見ましょう。実物が展示されている展覧会は、こんなときは、とても役に立ちます。

 やはり、いくつかの作品を見てみると、これは<Y>でなく<G>だ、そういう結論に達するでしょう。少なくとも今回、つくば美術館で展示されている永瀬作品を観察するとそういう結論に達するはずです。 そうすると、永瀬義郎は、「よしろう」と読むばかりでなく、少なくとも本人は「ぎろう」と読んでもいいように署名していたということは言えると思うのです。

 しかしここでは、どちらが正しいかという問題を提起しているのではありません。ちなみに桜川市の教育委員会の協力を得て、回答をもらったのですが、戸籍では読み仮名はふられていず、結論が出ないということです。 重要なことは、永瀬の作品には<G.Nagase>の署名があっても、何も怪しむには足りない、そして、「ぎろう」と読んでもいいことが意外にもあまり知られていなかったということです。どの程度知られていなかったのかは分かりませんが、私がよく使っている美術家事典などでは、みな「よしろう」とルビがふってあるだけで、<G>の署名や「ぎろう」の読みについて触れているものはありませんでした。

 抱腹絶倒の素晴らしい口述筆記の自伝『放浪貴族』に、フランス時代の永瀬の芸術家連合組合員証の写真がありますが、そこには<Nagase,Giro>の文字が見られます。

永瀬義郎著『放浪貴族』より

 また、永瀬が卒業した小学校には、<Guiro,Nagase>の署名がある版画が1点あります。このことは、今回の展覧会で来館された桜川市立南飯田小学校の川俣正英校長先生からお知らせ頂いたことです。<Guiro>とあるのは、フランスに憧れた美術家がローマ字読みでなくフラン人が読んでも「ぎろう」と発音してくれるように表記したもので、他の美術家にもしばしば見られる署名のフランス語風の表記法です。中村彝は<Nakamoura>、小出楢重は<
Koïé>などと表記することがあります。(舟木力英)







通信No.12(2008.6.5)
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劉生の日誌的絵画「窓外夏景」 ― 青空の記憶



 画面に右上に「窓外夏景/千九百二十一年七月/廿日於鵠沼画房/二階写之/ 劉生画人画」、上端中央に「劉」の文字が書き込まれている。朱筆による書き込み。画中の青空と対比的な色彩である。

 この作品に描かれている風景は、例えば私にとっては、少年時代の故郷の風景と少しも変わらないような気がする。地方に行けば今でも日本のどこにでもあるような変哲もない風景だ。電柱も劉生が描いていた当時、もはや物珍しいモティーフではなかろう。ただ、画面構成の上で、無秩序に繁茂する緑の中に多少整序された奥行感を暗示するのに役立っている。

 鑑賞者がここから読み取るのは、二階にいる劉生の眼に映った夏の濃い青空の記憶と、強い光の下で夏草が繁茂する鵠沼の日常的な光景そのものに過ぎない。彼の網膜上の記録や報告のようなものである。しかしこの報告は誰に見せるのでもない。だから、これは絵日記のようなもの、そう言ってしまうと語弊があるかもしれないが、日誌的な絵画である。

 劉生は、日常見ているその平凡な風景を、ここでは、神秘的なものに変貌させようなどとは思わず、むしろ俳諧的心情でその平凡さ愛しているように見える。彼はここでは、作品をこれ以上いじらず、むしろ、余裕を持って仕上げているのだ。しかし、劉生の他の作品に見られるある種の神秘感の表出や異化効果を好む鑑賞者にとっては、この作品ではいささか不満だろう。
 筆法もあの<実在の神秘>に達するような独特な緻密さではなく、むしろ稚拙味を帯びた素朴なものだ。評論家からこの時期の風景画は今ひとつ<絶対的魅力>に欠けると言われても仕方がない。これは、まさしく鵠沼の劉生が見た日誌的な光景であり、それ以外のものへの暗示や意味的な深化などは、認めたくとも認めようがない。



「窓外夏景」1921年作 (茨城県近代美術館蔵)


「窓外早春」1922年作


 ところで、この作品と全く同じ視点によるほとんど同じ構図の異なる季節に描かれた作品もある。「窓外早春」がそれである。もちろん、その他にも同じ視点からややクローズアップした作品などもある。視点やモティーフはいずれにも共通している。劉生は実際の風景を意外に忠実に描いていたのだなとこれらから分る。

 「窓外夏景」は、こうした作品も念頭において見たほうがよかろう。そうすれば少なくとも夏の強い光と早春の柔らかな空気感の相違はいっそうはっきりする。それだけのことだが、まぶしい夏の光や青空の記憶と、早春の生暖かい空気感は、やはり絵画によってこそ、最も効果的にその視覚的・感覚的な実感を定着できるのではなかろうか。多くの人が経験済みだろうが、撮影したカラー写真では思い描いていた青空の視覚的記憶とは違っていたというようなことがよくある。

 日誌的風景画などと私は言ったが、網膜上の青空の記憶や空気感の視覚的定着も、画家本人にとっては、存外大事だったのかもしれない。それはどんなに平凡なモティーフであっても、ある瞬間の感覚的な記憶を呼び戻す生きた証になるからだ。

 劉生の日誌的風景画、それはまた、冒頭に触れた書き込みからして、文人画的形式を類推させ、そこには独特な俳諧的心情の発露が隠されているようにも思われる。

 劉生は、確かに文学的・詩人的気質の画家だし、劉生が好きな層にも、作品の神秘的な側面や、ややグロテスクな深刻趣味(西洋的なものであれ、東洋的なものであれ)を好む人たちが多いような気がするが、一方でその反動のように―それがどこまで成功し、評価できるかは別にしても―まだ30歳の若さで、見ようによっては素朴な平凡さに帰着しかねないような脱俗的境地とでも言うのか、あるいはそれとは正反対の制作意欲から出ているのか、極めて私的な世界を開示する作品も並行させていた。(舟木力英)







通信No.11(2008.5.16)
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踊り子と哲学者 ― ドガとレンブラントの関連



 ドガの初期ダンス作品に「ダンス教室」(図1,L398)(コーコラン美術館蔵,ワシントンDC)という作品がある。画面左方に螺旋階段が描かれた,かなり特徴的な構図の作品である。画面に多数の踊り子が賑やかに描き込まれているのは,初期のダンス作品の特徴である。そして,構図を面白くし,画面に活気を与えているのは,螺旋階段を降りて来る踊り子たちの脚のシルエットと,螺旋階段そのものの幾何学的でリズミックな形態それ自体だろう。

 画面左方のこのダイナミズムに対して,画面右方にもこれと均衡を保つほどの重要なモティーフが必要になってくる。それが,赤い上衣を着て坐っている踊り子を中心とする画面右方のグループである。画面中景の螺旋階段付近には,つま先立ちをしている踊り子が姿を見せている。このポーズは,ダンスの専門用語で<タン・ド・ポワント>と呼ばれているものだ。

 ところで,螺旋階段の描かれているドガのダンス作品は,実はもう1点ある。「ダンスの稽古」(図2,L430)(グラスゴー美術館蔵)である。これもよく知られているドガの作品で,画面左方に螺旋階段が描かれているのは,前の作品と同じであるが,その螺旋階段のフォルムは,やや違っている。前の作品が,リズミックに直線を積み重ねているとすれば,この作品では,双曲線のようなフォルムが現れており,同じ螺旋階段とは思われない。画面中景部は,前者の<タン・ド・ポワント>の踊り子に対して,いわゆる<アラベスク>の態勢をとった踊り子が描かれている。そして,この作品でも,画面左方の螺旋階段に対して,画面右側前景に坐っている踊り子を中心に数人の人物群が対置されている。

 それぞれの作品では,室内空間も多数の踊り子のポーズも異なっているが,螺旋階段周辺部だけは,あまり変わらない。そこを降りてくる踊り子たちの溌剌とした脚が,逆光を浴びてシルエットを浮かび上がらせている。これは,エドモン・ド・ゴンクールもその『日記』に記述している印象的な場面であり,彼はドガのいずれかの作品を見ていたのだろう。

 これらの2作品で,最小限,基本的に共通しているモティーフは,画面左方の螺旋階段と,右方の坐っている踊り子の存在であり,これが作品の基本構図を決定している。このように作品を観察した後,賑やかなドガの初期ダンス作品から眼を転じて,今度は,孤独な老人の哲学者の世界へと入っていく。


図1

図2

図3

図4


 すなわち,ドガが作品研究のために通ったルーヴル美術館にレンブラント派の「哲学者」(図3)と題される作品がある(実は同館にやはり螺旋階段が描かれているレンブラントの「哲学者」図4もあるが,ここでは,議論を単純化するため図3のみ言及する)。画面左側の暗い室内空間には,螺旋階段が描かれ,右側には<哲学者>が坐っている構図である。静かで孤独な気配が漂う。この人物は,思考するようなポーズをとって,窓から入ってくる光を頼りに書物を読んでいるようだ。螺旋階段のある付近の空間は,闇と神秘の中に溶け込もうとしており,老人の孤独で思索的な世界を背後でいっそう深めている。

 さて,この17世紀の「哲学者」が,瞑想的で神秘的な作品であるとするなら,先に見てきたドガの2つのダンス作品は,明瞭な室内空間に賑やかに躍動する多数のダンサーたちが描かれたものであり,全く対照的な雰囲気をもっている絵であるが,構図においては,「哲学者」と重要な共通点があることは明らかであろう。

 ドガの先の2作品において,それぞれ異なる空間が設定されているにもかかわらず,なぜ,いずれも画面左端部に螺旋階段があり,かつ右側には,一人だけ坐っている踊り子がいるのか。ドガのいずれの作品でも,他の踊り子たちは,ダンスのポーズをとったり,練習をしたりしている。だが,なぜこの位置の踊り子だけが,ここに坐っているのか。それは,<躍動>と<休息>の対照だと私は解釈するが,それ以上に,まさしくレンブラント派の「哲学者」の構図が,その答を示しているようにも思われる。つまり,構図上の源泉があるのだ。
そう言えば,ドガの螺旋階段付近の逆光による強いコントラストも,バロック的な明暗法の遠い反響と見做せないこともない。ドガが若い頃,レンブラント芸術に関心を寄せていたことは事実だ。「哲学者」もドガの時代には、既にルーブルの所蔵となっていた。               

 しかし,ドガがレンブラント派のこの作品を実際に見ていたという文献的な証拠は,まだ見出されていない。もちろん,ドガがその「哲学者」を模写したとか,その部分をスケッチしたというような視覚上の証拠も見出されていない。パリの国立図書館にあるドガの手帳計36冊に含まれる素描など,多数のコピー等をリスト・アップしたTheodore Reffの論文にもそうした記述は見当たらない。もっとも,文献的もしくは視覚的な証拠が残っていたなら,欧米の研究者たちが疾うに論じていたことだろう。
             
 ドガとレンブラント,踊り子と哲学者,喧噪と孤独というような反対の世界が結びつくことは意想外である。だが,一見躍動的に見えるドガのダンス作品の裏側に,光の明暗法によるレンブラントの孤独で神秘的な哲学者の世界が二重写しとなって隠されているとすれば,ドガの芸術の本質が私にはより深く見えてくるような気がするのである。(舟木力英)







通信No.10(2008.5.11)

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中村彝、文字原稿の秘密 ― リンクする二つの翻訳原稿


 中村彝がテーヌの『藝術の哲学』を翻訳した原稿が3分冊になって茨城県近代美術館に残されている。その第1編第1章の表紙に「鈴木良三筆写」の文字が読み取れるが、その部分は、鉛筆で覆い消されたようになっている。

 一体誰が「鈴木良三筆写」と書き、さらにそれを誰が覆い消したのか。こんな疑問が、脳裏を過ぎったが、その疑問が解けないままになっていた。

 この問題を再び私に思い出させたのは、それまで疑ったこともない彝の別の翻訳原稿であった。これは、チェンニーノ・チェンニーニの『藝術の書』の翻訳原稿(1976年翻訳本挿図写真版、以下「写真版」と略す)で、そこには明らかに彝の真筆とは思われない文字が幾つも見出されたのだ。

 ところで、それよりも以前に私は、チェンニーニの翻訳原稿(写真版)は使わないで(茨城県近代美術館には彝の真筆書簡やテーヌの先の訳稿があるから)、ある作品の研究のため、彝の真筆文字の様式的な特徴を何とか掴み出そうとしていた時期があった。
そこでその副産物として気づいたことは、彝が頻繁に使う文字で、真筆かどうかを判別するのに比較的便利な特徴的な文字がいくつかあるということであった。例えば彝の「出」という文字がそれである。彝のこの文字は、「出来る」「出来れば」などと表記されるため、かなり頻繁に使用される。しかもごく稀な筆順と、そこから来ると思われる特異な字形をもっていた。それでこのことを「茨城県近代美術館だよりNo.62」の<研究ノート>に書いたことがある(「中村彝の筆跡(2)」2003年11月18日号)。

 この<研究ノート>には殆ど何の反応も、反論もなかった。しかし、私がこの<研究ノート>で書いたことは、実はチェンニーニの翻訳原稿(写真版)に見られる彝の文字の特徴と明らかに矛盾していたのである。
それは私がチェンニーニの翻訳原稿(写真版)を参照しなかったためか、私は方法上の誤りを犯したのかと焦った。そこで、私はチェンニーニの翻訳原稿(写真版)を真剣に、しかも早急に、検討しなければ気がすまなくなっていた。

 そして得た結果は実に思いもかけないものであった。すなわち、チェンニーニの翻訳原稿(写真版)は、彝の真筆でなく(ただし翻訳本「草稿」の写真版は真筆)、おそらく、それは鈴木良三氏が筆写した原稿であるという結論であった。

 さらに、この結論は、テーヌの翻訳原稿に「鈴木良三筆写」とあり、それが鉛筆で覆い消されている事実とリンクすると直ちに気づいた。

 もはや言うまでもないだろう。彝の真筆原稿であるテーヌの翻訳原稿に「鈴木良三筆写」と書きこんだのは、鈴木良三氏本人であり、おそらくそれを鉛筆で覆い消したのも鈴木良三氏である。
鈴木氏が、おそらく晩年になって、「鈴木良三筆写」と書き込むべきは、チェンニーニの『藝術の書』訳稿の方なのに、テーヌの『藝術の哲学』の方に氏自身が書き込んでしまったのだ。

 こうして小さな疑問が、大きな問題と完全にリンクしていたことを知り、それを解く鍵にもなっていたことを知って驚いたのである。
(舟木力英)








通信No.9(2008.5.8)
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真贋問題雑考(2)― 来歴調査の落し穴



 美術作品の来歴調査が、その作品の真贋判定にきわめて重要なものであることは、美術館学芸員なら誰でも知っていよう。しかしながら、来歴調査による真贋判断の危険性については、あまり認識されていないように思われる。

 ある作品が想定される芸術家の作品に本当に間違いないかどうかを見極める上で、確かに来歴調査は客観的で最も有効な方法に違いない。来歴調査は、もしその作品が、贋作でなく本物(真作)ならば、その作品の所有者を順次過去に遡って探っていくと、必ず当該作家に行き着くはずであるという前提に基づいて行なうものである。この前提そのものはもちろん間違っていない。
しかし、現実に来歴調査を行なってみると、ある程度、過去の所有者が判明しても、最後までその作家に直接行き着くことがない場合も多いのではなかろうか。ここで想定してみるのは、その作家の周辺で来歴がストップしてしまうという場合だ。しかし、これがかなり危険であるというのが今回のメッセージである。

 当該作家の周辺とは、その作家の友人、同じ画家仲間、その遺族や親戚などで、そこから問題作品が出てきたような場合である。他に真作かどうか作品以外に判断する材料が殆どない場合、作品所有者が当該作家の友人・その遺族・その親戚にまで遡れたのだから、問題作品は明らかに真作である可能性にかなり近づいているように見える。しかし実はここで専門家が騙されることもあるのだ。以下は現実の例でなく、あくまで想定される事例である。

 例えばある作品が、当該作家と交流があった同じ作家の遺族筋から出てきた場合を仮定してみよう。この場合は、作品の科学的検証によるチェックは、あまり有効でない。科学的検証というのは、個人の識別は一般に難しいと言われており、時代がある程度異なるような場合に、問題作品やその材料の一部が「決してその時代のものではありえない」といった反証の方法として効力を発揮する。

 問題の事例は、同時代作家の遺族筋から出てきた作品であるから、作品の額縁や木枠の古さ、画布や顔料分析などの検証で、<真作>と時代的な矛盾をきたすことはもとより少ないのである。しかも、来歴も当該作家のごく近辺にまで確かに遡れたから、信憑性も決して低いものとは言えない。

 こうした状況の中で、作風は積極的に当該作家の作品とまでは言えないが、贋作とも断定できなかったとする。つまり、当該作家の真作かどうかを見極めるのが、きわめて難しいケースである。特にそれが、作風の定まらない初期作品のような場合はなおさらであろう。
これは、科学的検証をパスして、来歴調査も信頼性が高いとした場合だから、残るは、作風の判断だけである。つまり、これは、当該作家の様式判断ができる専門家に結論を委ねる他はないような事例である。
この場合、専門家(鑑定家)とは、作品の素材面での科学的検証や事実的・客観的な来歴を伏せておいても、作品の「表層」、すなわち画面そのものだけでも、その作品の作者もしくは工房等を判断する能力が、きわめて高いと世間一般に認められている人物を指す。そこでもし、この専門家(鑑定家)が、今、問題作品の真作の可能性は45%ほど、それ以外の作家の可能性は55%ほどと判断したとしよう。この結果を聞けば、学芸員は判断に困ってしまうだろう。

 ところで、現実の日本の美術館学芸員は、一般に科学的手法による分析は他に委託するとしても、来歴調査と様式判断については、それらを一手に任されている専門家的存在と見做されている。だから、彼は何らかの結論を出さざるを得ない状況に追い込まれることもある。(もっともわが国の多くの公立美術館は、作品収集審査委員会などを組織していて、その委員会の決定を最終的な結論とする場合も少なくないから、真贋判定の責任はやや曖昧になる構造をもっている。)

 上記の場合を、わが国の一般的な学芸員の立場から判断し、次のような結論を出したとする。すなわち、@学芸員は自分の「主観的な」様式判断ではやや引っかかるものを感じたが(すなわち真作の可能性は数字にたとえると45%程度)、A「事実的・客観的」な来歴そのものは、「作家周辺」にまで遡れ、それ自体には間違いがなかった。よってB「事実的・客観的な」来歴調査を優先させ、(おそらく)<真作>(だろう)という結論を出したとする。だが、これは正しい結論の出し方、判断の仕方であったろうか。

 ところが、後で、その「作家周辺」を調べてみると、彼はあまり有名にならず、署名のない作品がいくつか遺族のもとに残されていたという事実が分かったとする。これはよくありうることだと思う。こうした場合が、特に要注意なのである。なぜなら、悪意のある売り手は、まさしく、ここにこそ目をつけるからである。

 すなわち、犯罪を試みる人物は、署名のない友人作家の作品、これまで殆ど流通性のなかった作品を、さりげなく安く買い取り、(時には数人の仲介者を経た上で、)その友人作家の作品としてではなく、有名作家の作品だとして高く売り込もうとするであろう。
この場合、もし、この友人作家またはその家族や遺族がいい加減な人物だと、こうしたことを実行しようとする売り手にはきわめて好都合である。なぜなら、その作品の売り手と、この友人作家筋とは経済的な利益が共有され、暗黙のうちに、あるいは殆ど無自覚のうちに、共犯関係を結びやすいからである。

 こうして、その悪意ある売り手は、次に「新発見」を期待する他の専門家・研究者・大学教授・学芸員あるいは同時代を生きた他の画家仲間を調べ上げ、彼らにその作品を<真作>だと言わせようとするであろう。必要なら政治家や様々な実力者を使って、彼らにそのように言わせ易い環境を整えようとするかもしれない。

 これは、<新発見>を期待する「専門家の心理」や当該作家と時代を共にした「画家の権威」を利用して、新たに<真作>を作り上げてしまう最も効果的な方法であり、問題が起これば、その責任をこうした専門家や同時代の画家に帰してしまう最も簡便で確実な方法である。
いずれにせよ、これが、科学的には殆ど何の問題もなく、来歴も当該作家に繋がる問題作品が、専門家の保証つきで、美術雑誌に発表されたり、展覧会に出品されたりして、いつの間にかその作品が本物・真作として認知されてしまう仕組とプロセスの、考えられる最も見事な、そして危険な事例なのである。

 それゆえ様式判断や筆跡鑑定をあまり信用せず、第三者が行なう科学的判定や取扱画商の信用度・実績、そして何よりも来歴調査に頼りがちな学芸員は、こうした仕組やプロセス、特に来歴調査による真贋判断そのものの危険性を予めよく承知しておかねばならない。

 「様式判断は、結局主観的なものであり、真贋判定には、実はあまり役には立たないのではないか」という勝手な思い込みをし、広い意味での様式判断、その最も確実な成果が期待される筆跡鑑定にもあまり関心がなかったのが実はかつての私だった。そして、作品の価値判断も自らはあまり口にしないのが、歴史的資料を扱う学芸員としての当然の節度ある態度だとも思っていた。しかし、今思うとこれはきわめて危険な態度であったと反省するのである。

 学芸員が専門家たりえるのは、まさしく他の専門家ができない様式判断を最終的にはできるからこそ専門家なのだと今は思う。彼は自らが心の中で感じた45%と55%の先の比率を「最終的に」もっと信頼すべきであった。(舟木力英)








通信No.8(2008.5.6)
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真贋問題雑考



 今日、学芸員が真贋判定のトラブルに巻き込まれる事例は、あまり耳にしない。だが、それは、美術館が真贋判定など問題にならない高価で有名な作品のみを買っているということではないだろう。学芸員の真贋判定に誤りがないからなのか。これもそうとは言い切れまい。皮肉な見方をする人は、美術館にいったん入ってしまえば、皆本物になるからだという。
実は(現時点では)作者名を決定することができないような作品も美術館は収蔵することがあるし、昨今の財政事情では、美術館も安値だが優れていると思われるような作品や、やや危ないが魅力もある作品にも手を出さざるを得なくなるかもしれない。これからの学芸員が真贋判断のトラブルに巻き込まれる可能性は大いにあるのだ。同時にいよいよ学芸員としての真贋を見極める真骨頂が試される時代がやって来たとも言えよう。

 画商さんが売りに出している作品にも、本当にその作品が当該作家の<真作>であるのかどうか、検証が十分でない作品がままあるように思われる。例えば、これは贋作ではないと思うが、ある有名な画家が描いた他の画家の部分的な模写作品が昨年秋ごろに売りに出されている例が見られた。これは、私にとって驚きだった。この作品が震災や空襲などによる焼失を免れて、やはり今でも存在していたのかという感動の驚きもあったが、さらに、もう一つの別な驚きもあった。

 部分的な模写作品は、全体を模写した作品と違って、模写の対象となった元の作品が一般には気づかれないことが多く、この売りに出された部分模写も、それを扱った画商さんにまだ気づかれていないのかもしれない。もし、まだ気づかれていないのなら(余計な心配だと言わないで欲しい)、これを買う側は要注意であろう。もし学芸員がこの作品に眼を着けたのなら、その点は、一般の購入者よりも、よくよく注意しておかなければならない。価格もそれによって当然変わる可能性もあるからだ。

 作家本人がかかわっているような展覧会は別としても、公的な美術館での展覧会に初出品の作品については、真贋判断を含め、何の説明も解説もないというのはよくない。美術史の専門家を加えた複数の有力大手画商が判断したから真贋問題など起こり得ようもないという態度は、権威主義的と批判されよう。学芸員は、こうした展覧会初公開の作品についてこそ、その来歴を含め、図録で解説を書くのが本領、見せ場だと思う。それに気づくのはほんの少数の入場者や図録の読み手だけであろうが、これはやはり大切にしていきたい。

 別の美術館に収蔵されている作品を、安心しきって借用・展示するのも好ましくはない。学芸員のその借用の心理は分かるが、危険なこともある。私が見た例では、いくつかの類似作品があるものだったが、問題のその作品は、既に別の公立美術館に収蔵されている作品に外見上あまりにも類似しているものであった。芸術家が類似の作品を描く例は珍しくないが、この作品は、なぜここまで芸術家が自己模倣しなければならないのか理解に苦しむような作品なのである。それは本当に作者本人によるレプリカなのだろうか。私にはかねてからその疑念が解けないでいるものだったが、展覧会やその図録では何の説明も解説もなかった。その作品の裏側は見ていないが、そこに仮に同時代の画家仲間による<鑑定書>のようなものが貼ってあったとしても、あるいは、その来歴が画家友人周辺にまで遡れるようなものであったとしても、様式的に見れば、決してそれらだけで安心できるような種類の作品とは思われない。モティーフ・構図・色彩布置は殆ど同じなのに、なぜ、筆勢・筆法がここまで違うのか。私から見れば、その問題作品とその類似作品との間に、あるモティーフとある部分のブラッシュ・ワークの2箇所に不自然な食い違い、もしくは改変がある。その外は本人のレプリカなら別段模倣しなくてもよいような細部まで模倣しているのにである。

 <鑑定書>そのものが全く意味をなさない偽筆であることもこの世の中にはザラにある。本物の<鑑定書>が付いている裏蓋を別の額縁に付け替えることだって容易である。そうすれば1点しかなかった本物からもう1点本物らしい来歴を持った作品が出来上がるかもしれないからだ。今日のネット社会では、有名作家の格安の作品が、偽筆の<鑑定書もどき>付きで出回っているようであるが、こうしたものの中には、たまたま見た私からすれば問題外のいい加減なものや、一目で贋作と判断できるものが出回っている。画家名と価格との関係だけから常識的に判断しても、もはや本物であることなど、到底ありえようがないほどのものが、それでもネット社会などではコレクター心理を巧みに刺激して、流通することがあるらしい。

 もちろんこれらは来歴調査などするまでもないようなものであるが、中にはこうしたものの来歴調査によって、真贋の定かでない問題作品と格安の贋作に限りなく近い作品とが来歴を共有することが判明することもあるようだ。
これは何を意味するかと言えば、格安の贋作に近い作品によって、真贋の曖昧な作品、あるいは展覧会に出品されて<真作>と信じられそうになった作品が、限りなく贋作近くに後戻りしたということである。おそらく、その逆ではない。真贋の曖昧な作品が、格安の作品に<真作>の可能性をもたらしてくれるということは、殆ど期待しない方がよい。これを過剰に期待すると、コレクター心理を操られることになる。<贋作>と、<真贋の定かでない作品>とが、もし、来歴を共有することがあれば、<真贋の定かでない>問題作品をもう一度洗い直すべきだ。

 真作を裏付けようとする来歴調査による真贋判断には、様式判断に疎い専門家や学芸員が陥り易いある危険性が含まれているが、逆に贋作の来歴調査は、真贋の曖昧な作品に思わぬ決着をつけてくれるのである。(舟木力英)








通信No.7(2008.4.29)
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中村彝とマネ


 中村彝の作風は、印象派世代の画家では、従来、セザンヌとルノワールの作品との関連が大きなものとして論じられることが多いが、近代生活の画家・ドガやマネの芸術との関連も無視できないものがある。

 彝の書簡集などで頻繁に名前が出てくるのは確かにセザンヌとルノワールであり、時には二人の芸術が対比的に論じられていることもあるが、ドガやマネの名前はあまり出てこない。

 私が気づいたところでは、ドガの名前が彝の書簡に出てくるのは、大正8年7月15日と翌年8月19日の洲崎宛書簡であり、マネの名前が出てくるのは大正9年5月17日と9月2日のやはり同氏宛書簡である。ドガにせよマネにせよ、いずれの書簡でも、二人の芸術や作品について彝が積極的・肯定的に論じたものではない。むしろ二人の芸術は他の画家と比較されて、消極的・やや否定的に言及されている面がある。

 しかし、彝のアトリエ内部の様子が分かる、残されている2種の写真を観察してみると、その壁に貼られていた裸体画の複製画は、ルノワールの作品ではなく、実はドガのパステル画の裸体作品であることが確認されたし(拙稿「中村彝と西洋美術」『茨城県近代美術館紀要』1996,No.4 )、彝の人物画に見られる未完成な手の表現やその他の作品に見られる彝のブラッシュ・ワークには、意外にもマネの筆法に非常に近いものが観察されるのである。

 今回ここで、提示しておきたいのは、彝が未完成のまま封印して、最後までアトリエに残しておいたとされる、相馬俊子を描いた「婦人像」(メナード美術館蔵)と、マネの有名な「オランピア」やニナ・ド・カリアスを描いた「婦人と団扇(ニナ・ド・カリアス)」(1873‐74年作、オルセー美術館蔵)との関係である。


中村彝「婦人像」


マネ「婦人と団扇(ニナ・ド・カリアス)」 

 明治末大正初期の彝の作品は、確かに若い女性の半裸体を描いて、生命の高揚感や官能の喜びに満ちており(これは、わずかその10年後に見られる死をモティーフとした芸術ときわめて対照的である)、ルノワール芸術への憧憬が認められると言っても決して間違いではないが、生命の高揚感を見せる彝の芸術には、その一方で、駆け抜けるようなすばやい筆法があった。これは彝の最終期の作品にまで繋がっていくが、その線描に込められた倫理的・精神的な性格は次第に変質していったのである。

 彝の「婦人像」(メナード美術館蔵)の背景を大きく分割する手法やソファの装飾文様(この文様は彝の他の作品にも何度か出てくる)の趣味は、マネの「オランピア」の背景処理や装飾文様の趣味といくぶん共通したものがあるが、モデルのポーズ(いわゆる鏡像関係であり、ドガは自作の作品相互に、こうした手法を頻繁に応用している)、髪型、やや不自然な黒い衣装、すばやい筆法、そして、なぜかモデルの顔立ちまで、私には不思議にマネの「婦人と団扇」を彷彿とさせるものがあるように思われるのである。

 彝がマネの作品をどの程度知っていたかは、明らかではない。しかし、少なくとも、先の書簡に拠れば、「モネの家庭」を描いた作品は知っていた。おそらくこれは、1874年にルノワールとマネがアルジャントゥイユのモネの家を訪れた時に、マネが描いた作品であろう。彝はその複製画を当時の美術雑誌か画集で見ていたのだろう。

 おそらく彝は、マネがジャポニスム趣味を絡ませてニナ・ド・カリアスを描いた「婦人と団扇」も、印象深く美術雑誌か画集などの複製画で見て、ポーズや筆法などを研究していたのではないか。いつか、そうした複製画や参考本が発見されることを期待したい。彝と直接・間接交流のあった画家の遺族がお持ちの品物に、彝の遺品なども紛れ込んで知られずに眠っているようなこともあると思う。(舟木力英)







通信
No.6(2008.2.4)
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下村観山「大原の露」−県所蔵品に見る美術と文学




下村観山「大原の露」1900(明治33)年 


世紀の変わり目、明治33年(1900年)に描かれた大きな作品。『平家物語』の「灌頂巻(かんじょうのまき)」に見られる<大原御幸>から題材をとったものである。描かれている二人の女性は建礼門院とお供の女房、大納言典侍局(だいなごんのすけのつぼね)。

建礼門院は安徳天皇の母、平清盛の娘で、壇の浦で入水したが助けられ、出家して大原の寂光院に住んでいた。そうしたある日、たまたまうしろの山に花摘みに出かけているとき、平家追討の命を下した後白河法皇が訪ねてくる(大原御幸)。頃は卯月(陰暦四月)二十日あまりのこと。このとき、女院の心は揺れた。

 場面は、まだ山中にあり、建礼門院は花筐(はながたみ)、すなわち花かごとともに表現され、もうひとりは「爪木(つまぎ)に蕨(わらび)折添へていだきたる」姿で描かれている。
 女院はまだ坐っているが、お供の女房は既に立ち上がって下方を見つめている。その日の不思議な予感に満ちた二人の姿を捉えた作品ではなかろうか。


以上は、観山の「大原の露」の例であるが、このほか、県近代美術館には美術と文学との関連を示した作品がいくつかある。木村武山の「イソップ物語」、小林巣居人の「よだかの星」や「水辺画巻」、芋銭の諸作品などである。
 巣居人の「よだかの星」は宮沢賢治の作品から題材を採ったものであり、「水辺画巻」は霞ヶ浦の沈鐘の伝説などを含んでいる。

マネのリトグラフ「腕白小僧・犬と少年」は、ムリリョの「子供の乞食」から影響を受けた自作の油彩画をもとに制作した作品であるが、この少年のモデルは、一説によるとマネのアトリエで働いていた。この少年は、マネの油彩画「サクランボと少年」のモデルでもあり、その自殺がボードレールの散文詩「紐」に霊感を与えたというのも興味深い。

県近代美術館の所蔵品と文学との関連を探すのは楽な仕事ではないが、大切なことである。美術館来館者にとっても、楽しく面白い内容になるはずだ。展覧会やギャラリー・トークなどで新世代の学芸員がそうした研究成果を披露されることを期待したい。

愚生も今年の川上澄生展で、すばらしいストーリーの「雪のさんたまりや」が、澄生自身の創作によるものか、それとも他に典拠があるものか分からないでいたとき、実は典拠があって、それが隠れキリシタンの聖書である『天地始之事』であることに気づくまで、『新村出全集』から『白秋全集』まで迂回して、大いに労した。しかし、不思議にも図録印刷直前に『谷川健一著作集』を経て、『天地始之事』にたどり着き、補注に書き加えることができた(通信No.1参照)。その日、新発見の祝杯をあげ、高価ではない酒もなぜか美味しく飲めたことは言うまでもない。
(舟木力英)








通信No.5(2008.1.15)
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海外の美術事情・工芸事情1
アメリカが注目する日本の「徒弟性」-ハーバード大学セラミック・プログラムと備前展



 例えば日本の東大に陶芸の工房があったとしたらどうだろう。政財界や様々な学問領域のトップを担う若者たちが、教養として土に触れ陶芸に親しむ。さらには有料で一般市民が学生らと一緒に同様の陶芸講座を受けることができるとしたら。そうした環境がアメリカには既に確立している。ボストンのハーバード大学にある陶芸スタジオにはロクロ、窯、釉薬室など、陶芸に必要な設備がそろっている。ここで学んだエリートたちが後に理解ある陶芸コレクターとなる可能性は大きい。

 この陶芸スタジオで去る2006年4月、備前焼に関するディスカッションと日本・アメリカの作家による制作実演が行われた。このプログラムは、ボストン美術館で開催中の「現代の土:新世紀を拓く日本陶芸」展やボストン美術館のシンポジウムとあわせ、日本協会の後援や陶芸家ジェフ・シャピロの尽力により実現されたものである。プログラム全体のテーマは「備前:世代と文化の交差」。全体の進行はハーバードのナンシー・サルヴェイジ女史である。作家は日本から、人間国宝の伊勢崎淳はじめ、隠崎隆一、伊勢崎晃一朗、アメリカ側の作家はジェフ・シャピロ、ティム・ローウェン、ジョディ・ジョンストン。彼らには、隠崎、ジェフ、ジョディが伊勢崎淳の弟子、ティムが隠崎の弟子、晃一朗がジェフの弟子という師弟関係がある。討論のねらいの一つは、備前約800年の歴史の中で現代備前の陶芸家とその弟子達がどのように学び、作家として育っていくのか考えることにあった。

 プレゼンの中心となった伊勢崎淳の話の趣旨は自身の陶芸家としての歩みである。戦後、作家といえる者が十人程しか存在しなかった備前で、父陽山の没後、形見分けにヘラを1本、兄に貰って独立。備前の窯焚きは一人では困難なため、手伝って貰う人を求めたことが弟子をとるきっかけとなった。今では「伊勢崎学校」と呼ばれている。朝と夕方掃除をすること以外、何も教えた覚えはない、自分の道は自分で見つけるしかないと述べた。 他の作家たちはスライドを用いて現在の仕事などを説明。日本で弟子入りしてよかったことは、作業の工程の一部始終をずっと通して勉強できること。弟子として過ごすことで制作に必要な工程を自然と体で覚えられる。現在、弟子たちはそれぞれアメリカ国内で穴窯、薪窯を持ち制作。ジェフ、ティムは各々既に弟子もいる。日本で学んだ陶芸家たちをきっかけに、我が国の新たな「徒弟制」の良さはアメリカにも普及しつつあるのだ。

 ディスカッションの質疑応答の中で「なぜ伊勢崎淳が人間国宝に選ばれたのか」という質問があり、筆者が指名されたので二つの理由を挙げた。第一に、備前の伝統技法を用いながら造形的革新をもたらしたこと。第二に、国内外を問わず後進の作家を多数育てていること。しかもその作家たちの仕事が多様であること。それはここにいるジェフや隠崎らが証明している。備前焼で認定された作家は、最初の金重陶陽を含め5人おり、日本のどの地域よりも多いが、この二つの理由故に伊勢崎が認定された意義は大きい。伝統の継承をあくまでも創造性の展開とともに導いてきたことが日本の多くの陶芸家の中から伊勢崎が認定された理由ではないかと考えていると答えた。また、黒備前や塗り土の技法が話題の一つとなった。黒備前は伊勢崎淳をはじめ、弟子たちにも様々なかたちで受け継がれ展開されている。土を何より重視する備前の伝統にあってこれは将来の備前焼における重要な示唆を含んでいるであろう。午後はティムと伊勢崎晃一朗がそれぞれ制作実演を担当。ティムは量塊を刳り貫いて作るボックス状のかたち、晃一朗は手捏ねを基本にした茶碗などを制作。2作家の普段どおりの自然な仕事ぶり、リズムは実に見事なものであった。

 さらに、同じマサチューセッツ州のラコステ・ギャラリーで時期をあわせ 「世代の交差点:備前の展開」展が開催された。本展は日本協会、ボストン美術館、ハーバード大学がスポンサーとなって実現されたもの。日本陶芸は今アメリカで売れ行き上々だが本展は販売を主目的とした展覧会ではない。展覧会タイトルが示すとおり、現代の備前焼がどのように世代を継いで受け継がれ革新的に展開しているか、そのライブの姿を、日本と、日本で学んだアメリカの作家の作品で紹介したものである。出品作家は伊勢崎淳・晃一朗、ジェフ、隠崎隆一、ティムの5名。特に隠崎に学んだティムに注目した。 彼は米国各地の工事現場などで採取した土を精製せずに原土に近い状態で使用、しばしば5センチを越える肉厚で豪快な造形を展開している。ティムによれば、ゆっくり温度を上げれば、石が混じっていようと肉厚であろうと、焼成可能なのである。NY郊外のティムの工房も訪ねたが、薪は松だけでなくオークやメイプルなど周辺に豊富にある木材を利用し、窯焚きをしているのだという。アメリカには広大な土地があり、斜面さえ見つければ日本よりむしろ穴窯も築き易い程だ。

 ヴォーコス以来のアメリカ陶芸の流れ−つまり抽象表現主義からポップアートなど現代美術の影響、フィギュラティブな傾向、あるいはそれらに対する反動といってよい機能性(器)への回帰、一方で民芸陶器の独走−というアメリカ陶芸のイメージが、本展を見ただけでも鮮やかに覆る。アメリカ陶芸は今まさに進行・展開中だ。伊勢崎淳の認定理由として常日頃筆者が口にしていた「造形の革新」と「後進の育成」とは、本展がライブで見せた国境を越えた世代の拡がりに、一層リアリティをもつ。 アメリカでも日本でも「現代備前」は、今まさに現在進行形である。特に、アメリカが、日本の個々の陶芸作品に惹かれるだけでなく、そうした作品が生み出される背景としての日本の「徒弟性」に注目していることに、改めて歴史が育んできたものの大きさをかみしめている。(外舘和子)








通信
No.4(2007.12.10)
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ルノワール、茨城とパリ −マドモワゼル・フランソワとは誰?



 茨城県近代美術館所蔵の「マドモワゼル・フランソワ」(画像左)は、筆触分割などの印象主義技法から遠く離れ、ルノワール最晩年の特徴をよく示しているように見える。赤や黄やバラ色を主調とし、色数は必ずしも多くない。筆法は大きく柔らかで流麗である。カンヴァス地を透かして見せるほどの薄塗の部分も多い。しかもその薄塗の色調を何度か重ねて微妙な諧調を出している。

 さて、この肖像画のモデルはフランソワ嬢ということであるが、詳細は不明である。ある研究者によれば、この作品の最初の購入者は、フランソワという人である。従って、モデルのフランソワ嬢と最初の購入者のフランソワには密接な関連が予想されるが、これだけでは何とも断定はできない。


 ところでパリのオランジュリー美術館にルノワールの「バラの髪飾りをつけたブロンド娘」という作品がある。この作品は、1988年の茨城県近代美術館開館記念展「モネとその仲間たち展」に出品されたことがあり、同館の上記作品との比較の上できわめて重要なものであるから、筆者はそのことについて図録で簡単に触れておいたことがある。

 パリの「ブロンド娘」は、通称デデという、画家お気に入りのモデルであって、女優としては、カトリーヌ・エスラン(1900〜1979)という名で知られている。画家の息子で有名な映画監督のジャン・ルノワールと結婚した女性だ。

 茨城の「フランソワ嬢」は、ブロンドではないが、きわめて興味深いことにデデと同じ髪飾り、同じ衣装を身に着けている。この衣装はジプシーのそれだという人もいる。しかし、もし、「フランソワ嬢」がフランソワという人による注文肖像画とすれば、デデと彼女とが同じ髪飾り、同じ衣装を身に着けているのは、いささか奇妙なことではないか。

 一般に注文肖像画というものは、モデルもしくは発注者が望むような姿で描いてもらうものである。だが、ここではフランソワ嬢は、その髪飾りや衣装から見て、モデル自身の趣味を反映したものというより、明らかに画家自身の好みに任されているのである。ルノワールの他の作品との比較からそう思わざるを得ない。そうするとこの作品が、本当に注文による肖像画であったのかどうかを含め、この作品を改めて考え直してみる必要があるように思われる。

 今、仮にこの作品がモデル側からの注文による作品であったとしても、髪飾りや衣装の他、口唇の描き方などを見ると、これらはもはやモデルの個性に由来するというよりも、むしろルノワールが描いた他の多くの女性像に共通して観察される画家晩年の一般的な特徴を示すものに過ぎないことが分かる。そこから筆者はかつてモデル側よりも画家の優位、近代における画家の個性の尊重、その結果としてのモデルに対する個性尊重の相対的な低下と注文肖像画の衰退、すなわち芸術家優位の思想の具体的な現れを見たのであるが(「アートフォーラム」No.16,茨城県近代美術館発行1991年)、そうした解釈だけで果たしてよいものかどうか。

 この作品は様々な展覧会に貸し出されているが、まだ、その後の研究の展開は見られない。ルノワールのカタログ・レゾネが完成されていないためか、ルノワール研究の困難さが思い知らされる作品でもある。(舟木力英)







通信No.3(2007.11.20)
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モネ「ポール・ドモワの洞窟」―俯瞰的な視点による空間破壊  


 モネの1880年代の作品である。モネの80年代の作品というのは、セーヌ周辺を描いた70年代の川辺の景色に対して、海景画が多く、しかも水平線が画面の上方にあって、俯瞰的な視点がとられているものが目立つ。これはジャポニスムの影響と見られ、新国立美術館のモネ展に標記の作品が貸し出された時にも、そうした分類でこの作品が展示されていた。

 ジャポニスムの影響としての俯瞰的な視点、水平線(地平線)の上昇(江戸から明治初期にかけての日本美術では逆に西洋の影響によってそれが下降していく傾向がある)というのは、今日ではほぼ定説に近いものとなっているが、30年ほど前はまだ必ずしもそうではなかった(拙稿「クロード・モネの水辺風景画のモティーフ―日本版画との比較」『美術史学』創刊号/1978/東北大学美学美術史研究室発行)。
 水平線(以下水平線という時、地平線も含む)が画面上に存在する時、それは画家の視点の位置を示している。画家が高いところから俯瞰的に風景を眺め、その光景を画面上に表現しようとすると、当然、水平線は画面の上方に位置するか、描かれなくなってしまうであろう。それが描かれている場合、水平線の位置こそが、画家の眼がある高さなのである。
 西洋のルネサンス以来の線遠近法は、地上に立つ画家の視点を確固不動の絶対的なものとして、つまり文字通り自我を持った一人の人間を中心として(人間中心主義の視点)、世界を眺めるから、山の上のような高いところにでも登った時でもなければ、俯瞰的な視点はとらない。
その結果、画面上に表現される水平線の位置は、地上に立った画家の背丈ほどの位置から眺められた世界が描かれるわけであるから、当然水平線は、画面の中央部よりも概ね低い方に位置していることが多い。若い頃のモネの師であるブーダンなどの作品も、低い水平線の作品が目立っている。

 ところがモネの80年代の作品は違う。80年代のモネはいかなる精神的な欲求によるのか定かではないのだが、断崖絶壁のあるような海景主題を雄々しく求めていく。眩暈のするような断崖絶壁のモティーフや奇岩のモティーフもある。また、断崖絶壁から俯瞰して、海面そのものを描く構図も多い。そうすると、水平線は上昇して、画面の上方に位置することになる。
 モネの「ポール・ドモワの洞窟」はそうした一連の作品の1点なのである。

 90年代以降のモネは連作に向かい、20世紀を控えて睡蓮の時代に入る。睡蓮の連作は、近接した視点からの俯瞰的な構図によって、水面上の水と光のドラマを描く。そして睡蓮の終局的な作品は、パリのオランジュリー美術館の巨大な作品となるが、この作品は、楕円形の壁面空間に曲面を結ぶ形式をとっているから、ルネサンス以来の線遠近法的な理念、すなわち確固不動の唯一の画家の視点(人間中心主義の視点)という観念は、完全に揚棄されているのである。モネは、おそらく、ジャポニスムの影響による俯瞰的な視点の導入によって、西洋500年に渡るルネサンス以来の線遠近法的な視点による空間を、殆ど無自覚のうちに破壊し、新しい空間を産み出そうと苦闘していたのである。
(舟木力英)








通信No.2(2007.11.9)
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中村彝の名前の由来


 茨城県を代表する洋画家は中村彝(つね)であるが、どうしてこんなに難しそうな名前がつけられたのであろう。
 彝には二人の兄と二人の姉がいた。兄たちの名前は、「直」と「中」であり、簡明な一文字だけであることは共通しているが、難しい文字は使っていない。彝は中国古代の祭器を意味する語であることは、漢和辞典を見ればわかるが、それだけでは名前の由来の説明にはならない。

 彝よりも5年前に生まれた版画家・洋画家に山本鼎(かなえ)がいるが、これも中国の古代祭器が人名に使われている例である。「鼎」は次第に「尊いもの」「優れたもの」を意味するようになり、人名に使われるようになったと思うのだが、「彝」にも「不変」や「法則」「人の守るべき道」という意味があり、そういう意味が込められて、その名がつけられたのであろう。
 しかし、それだけでも「彝」の名前の由来の説明としては十分でない。実は彝の名前は幕末の水戸の思想に関係していると私は思う。

 彝は水戸の下級士族の出であるが、祖父は中村三五衛門といって藤田東湖の『回天詩史』にその名前が挙げられている。その『回天詩史』に「彝」の字を見かけた覚えがあったので、再びそこを探してみると、それは東湖が、会沢正志斎の文献として『迪彝編(てきいへん)』を挙げている部分だった。「迪彝」とは「人の守るべき道を進んでいく」というような意味であろう。正志斎には『下学邇言』という書物もあってここにも「彝倫」という言葉が何度も出てくる。
 さらに東湖自身の有名な「正気の歌」にも「すなわち知る、人亡ぶといえども英霊未だかつてほろびず。長く天地の間に在り、凛然として彝倫を叙(つい)ず」と「彝」の文字が見られる。また、東湖の最も重要な『弘道館記述義』にも「彝倫」の言葉が見出せる。

 このように見ていくと後期水戸学の代表的な二人の思想家の著作に「彝倫」が強調されていることがわかる。つまり、弘道館で学んだ水戸の士族たちにとって「彝」の文字は決して馴染みない文字ではなかったのである。私はそう推測する。
 中村彝の「彝」という名前は、「彝倫」が強調されている後期水戸学の思想的環境の中でつけられたのであろうと私は思う。

 因みにその実行者とはならなかったが、井伊大老暗殺計画に加わった水戸の過激派に野村彝之介がいる。この人は野村鼎之介、野村鼎実、野村彝之介鼎実とも関連文献では記されており、中村彝が生まれた時にまだ生きていた。晩年常盤神社宮司を務めた人である。野村の名前は「彝」と「鼎」が同根であることを示していてこれも興味深い。(舟木力英)








通信 No.1(2007.11.3)
論考紹介
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「川上澄生の作品 ― 受け容れられない愛のモティーフ」


 2007年度企画展『木版画の詩人川上澄生』図録(茨城県つくば美術館発行)で標記の論考を発表しました。この論考は、澄生の版画・絵本・詩・短歌の中で共通して見られる特徴的な「受け容れられない愛」のモティーフをめぐって、様々な作品を取り上げ、それを多角的に論じたものです。その具体的内容としては、作品に即して言えば、以下のようなことが言及されています。

(1)澄生の絵本『にかのる王傳』は、「東方の三博士」の変形譚であるが、その物語の内容骨子はヘンリー・ヴァン・ダイクの『もう一人の賢人』に酷似している。しかし、澄生作品の典拠が直接または間接にこの本にあるかどうかは不明である。

(2)澄生の最初の詩集『青髭』は、「受け容れられない愛のモティーフ」の典型的な作品のひとつで、詩と版画と音楽とが総合された趣がある。それは、主題の提示・展開・終結部が見られる音楽的構成と、愛についての音楽的比喩や連想を含む一連の作品として制作されている。

(3)澄生は、55年間も「受け容れられない愛」(女性ばかりでなく、母や父からの愛も含む)を抱き続けてきた芸術家であり、その思いは、イエスの生誕に間に合わず、33年も遅れてきて、かえって、その磔刑に立ち会うことになった「にかのる」王の心情にも重ねることができる。

(4)澄生の絵本『雪のさんたまりや』の主題は、直接的には、隠れキリシタンの聖書と言われる『天地始之事』に典拠を持つものに相違ない。このことは、@蝶がマリアの口から入って処女懐胎した、Aマリアが焦がれ死にした「ろそん」の王と天上で結婚した、B牛と馬とが温かい息を吐きかけて幼子イエスを凍え死にさせなかったという、いずれもきわめて印象的で重要なモティーフが、先の隠れキリシタン写本に見出されることから検証される。

 以上のほか、この論考では澄生の詩におけるフェティシズムやそれに結びつく探偵趣味、そこから発展していく空想上の殺人趣味やストーカー趣味などについても言及しています。
 なお、上記のうち(4)は、当該図録論考の「補説」で明らかにしています。(舟木力英)






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