通信No.11(2008.5.16)
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踊り子と哲学者 ― ドガとレンブラントの関連
ドガの初期ダンス作品に「ダンス教室」(図1,L398)(コーコラン美術館蔵,ワシントンDC)という作品がある。画面左方に螺旋階段が描かれた,かなり特徴的な構図の作品である。画面に多数の踊り子が賑やかに描き込まれているのは,初期のダンス作品の特徴である。そして,構図を面白くし,画面に活気を与えているのは,螺旋階段を降りて来る踊り子たちの脚のシルエットと,螺旋階段そのものの幾何学的でリズミックな形態それ自体だろう。
画面左方のこのダイナミズムに対して,画面右方にもこれと均衡を保つほどの重要なモティーフが必要になってくる。それが,赤い上衣を着て坐っている踊り子を中心とする画面右方のグループである。画面中景の螺旋階段付近には,つま先立ちをしている踊り子が姿を見せている。このポーズは,ダンスの専門用語で<タン・ド・ポワント>と呼ばれているものだ。
ところで,螺旋階段の描かれているドガのダンス作品は,実はもう1点ある。「ダンスの稽古」(図2,L430)(グラスゴー美術館蔵)である。これもよく知られているドガの作品で,画面左方に螺旋階段が描かれているのは,前の作品と同じであるが,その螺旋階段のフォルムは,やや違っている。前の作品が,リズミックに直線を積み重ねているとすれば,この作品では,双曲線のようなフォルムが現れており,同じ螺旋階段とは思われない。画面中景部は,前者の<タン・ド・ポワント>の踊り子に対して,いわゆる<アラベスク>の態勢をとった踊り子が描かれている。そして,この作品でも,画面左方の螺旋階段に対して,画面右側前景に坐っている踊り子を中心に数人の人物群が対置されている。
それぞれの作品では,室内空間も多数の踊り子のポーズも異なっているが,螺旋階段周辺部だけは,あまり変わらない。そこを降りてくる踊り子たちの溌剌とした脚が,逆光を浴びてシルエットを浮かび上がらせている。これは,エドモン・ド・ゴンクールもその『日記』に記述している印象的な場面であり,彼はドガのいずれかの作品を見ていたのだろう。
これらの2作品で,最小限,基本的に共通しているモティーフは,画面左方の螺旋階段と,右方の坐っている踊り子の存在であり,これが作品の基本構図を決定している。このように作品を観察した後,賑やかなドガの初期ダンス作品から眼を転じて,今度は,孤独な老人の哲学者の世界へと入っていく。
すなわち,ドガが作品研究のために通ったルーヴル美術館にレンブラント派の「哲学者」(図3)と題される作品がある(実は同館にやはり螺旋階段が描かれているレンブラントの「哲学者」図4もあるが,ここでは,議論を単純化するため図3のみ言及する)。画面左側の暗い室内空間には,螺旋階段が描かれ,右側には<哲学者>が坐っている構図である。静かで孤独な気配が漂う。この人物は,思考するようなポーズをとって,窓から入ってくる光を頼りに書物を読んでいるようだ。螺旋階段のある付近の空間は,闇と神秘の中に溶け込もうとしており,老人の孤独で思索的な世界を背後でいっそう深めている。
さて,この17世紀の「哲学者」が,瞑想的で神秘的な作品であるとするなら,先に見てきたドガの2つのダンス作品は,明瞭な室内空間に賑やかに躍動する多数のダンサーたちが描かれたものであり,全く対照的な雰囲気をもっている絵であるが,構図においては,「哲学者」と重要な共通点があることは明らかであろう。
ドガの先の2作品において,それぞれ異なる空間が設定されているにもかかわらず,なぜ,いずれも画面左端部に螺旋階段があり,かつ右側には,一人だけ坐っている踊り子がいるのか。ドガのいずれの作品でも,他の踊り子たちは,ダンスのポーズをとったり,練習をしたりしている。だが,なぜこの位置の踊り子だけが,ここに坐っているのか。それは,<躍動>と<休息>の対照だと私は解釈するが,それ以上に,まさしくレンブラント派の「哲学者」の構図が,その答を示しているようにも思われる。つまり,構図上の源泉があるのだ。
そう言えば,ドガの螺旋階段付近の逆光による強いコントラストも,バロック的な明暗法の遠い反響と見做せないこともない。ドガが若い頃,レンブラント芸術に関心を寄せていたことは事実だ。「哲学者」もドガの時代には、既にルーブルの所蔵となっていた。
しかし,ドガがレンブラント派のこの作品を実際に見ていたという文献的な証拠は,まだ見出されていない。もちろん,ドガがその「哲学者」を模写したとか,その部分をスケッチしたというような視覚上の証拠も見出されていない。パリの国立図書館にあるドガの手帳計36冊に含まれる素描など,多数のコピー等をリスト・アップしたTheodore
Reffの論文にもそうした記述は見当たらない。もっとも,文献的もしくは視覚的な証拠が残っていたなら,欧米の研究者たちが疾うに論じていたことだろう。
ドガとレンブラント,踊り子と哲学者,喧噪と孤独というような反対の世界が結びつくことは意想外である。だが,一見躍動的に見えるドガのダンス作品の裏側に,光の明暗法によるレンブラントの孤独で神秘的な哲学者の世界が二重写しとなって隠されているとすれば,ドガの芸術の本質が私にはより深く見えてくるような気がするのである。(舟木力英)
通信No.10(2008.5.11)
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中村彝、文字原稿の秘密 ― リンクする二つの翻訳原稿
中村彝がテーヌの『藝術の哲学』を翻訳した原稿が3分冊になって茨城県近代美術館に残されている。その第1編第1章の表紙に「鈴木良三筆写」の文字が読み取れるが、その部分は、鉛筆で覆い消されたようになっている。
一体誰が「鈴木良三筆写」と書き、さらにそれを誰が覆い消したのか。こんな疑問が、脳裏を過ぎったが、その疑問が解けないままになっていた。
この問題を再び私に思い出させたのは、それまで疑ったこともない彝の別の翻訳原稿であった。これは、チェンニーノ・チェンニーニの『藝術の書』の翻訳原稿(1976年翻訳本挿図写真版、以下「写真版」と略す)で、そこには明らかに彝の真筆とは思われない文字が幾つも見出されたのだ。
ところで、それよりも以前に私は、チェンニーニの翻訳原稿(写真版)は使わないで(茨城県近代美術館には彝の真筆書簡やテーヌの先の訳稿があるから)、ある作品の研究のため、彝の真筆文字の様式的な特徴を何とか掴み出そうとしていた時期があった。
そこでその副産物として気づいたことは、彝が頻繁に使う文字で、真筆かどうかを判別するのに比較的便利な特徴的な文字がいくつかあるということであった。例えば彝の「出」という文字がそれである。彝のこの文字は、「出来る」「出来れば」などと表記されるため、かなり頻繁に使用される。しかもごく稀な筆順と、そこから来ると思われる特異な字形をもっていた。それでこのことを「茨城県近代美術館だよりNo.62」の<研究ノート>に書いたことがある(「中村彝の筆跡(2)」2003年11月18日号)。
この<研究ノート>には殆ど何の反応も、反論もなかった。しかし、私がこの<研究ノート>で書いたことは、実はチェンニーニの翻訳原稿(写真版)に見られる彝の文字の特徴と明らかに矛盾していたのである。
それは私がチェンニーニの翻訳原稿(写真版)を参照しなかったためか、私は方法上の誤りを犯したのかと焦った。そこで、私はチェンニーニの翻訳原稿(写真版)を真剣に、しかも早急に、検討しなければ気がすまなくなっていた。
そして得た結果は実に思いもかけないものであった。すなわち、チェンニーニの翻訳原稿(写真版)は、彝の真筆でなく(ただし翻訳本「草稿」の写真版は真筆)、おそらく、それは鈴木良三氏が筆写した原稿であるという結論であった。
さらに、この結論は、テーヌの翻訳原稿に「鈴木良三筆写」とあり、それが鉛筆で覆い消されている事実とリンクすると直ちに気づいた。
もはや言うまでもないだろう。彝の真筆原稿であるテーヌの翻訳原稿に「鈴木良三筆写」と書きこんだのは、鈴木良三氏本人であり、おそらくそれを鉛筆で覆い消したのも鈴木良三氏である。
鈴木氏が、おそらく晩年になって、「鈴木良三筆写」と書き込むべきは、チェンニーニの『藝術の書』訳稿の方なのに、テーヌの『藝術の哲学』の方に氏自身が書き込んでしまったのだ。
こうして小さな疑問が、大きな問題と完全にリンクしていたことを知り、それを解く鍵にもなっていたことを知って驚いたのである。
(舟木力英)
通信No.9(2008.5.8)
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真贋問題雑考(2)― 来歴調査の落し穴
美術作品の来歴調査が、その作品の真贋判定にきわめて重要なものであることは、美術館学芸員なら誰でも知っていよう。しかしながら、来歴調査による真贋判断の危険性については、あまり認識されていないように思われる。
ある作品が想定される芸術家の作品に本当に間違いないかどうかを見極める上で、確かに来歴調査は客観的で最も有効な方法に違いない。来歴調査は、もしその作品が、贋作でなく本物(真作)ならば、その作品の所有者を順次過去に遡って探っていくと、必ず当該作家に行き着くはずであるという前提に基づいて行なうものである。この前提そのものはもちろん間違っていない。
しかし、現実に来歴調査を行なってみると、ある程度、過去の所有者が判明しても、最後までその作家に直接行き着くことがない場合も多いのではなかろうか。ここで想定してみるのは、その作家の周辺で来歴がストップしてしまうという場合だ。しかし、これがかなり危険であるというのが今回のメッセージである。
当該作家の周辺とは、その作家の友人、同じ画家仲間、その遺族や親戚などで、そこから問題作品が出てきたような場合である。他に真作かどうか作品以外に判断する材料が殆どない場合、作品所有者が当該作家の友人・その遺族・その親戚にまで遡れたのだから、問題作品は明らかに真作である可能性にかなり近づいているように見える。しかし実はここで専門家が騙されることもあるのだ。以下は現実の例でなく、あくまで想定される事例である。
例えばある作品が、当該作家と交流があった同じ作家の遺族筋から出てきた場合を仮定してみよう。この場合は、作品の科学的検証によるチェックは、あまり有効でない。科学的検証というのは、個人の識別は一般に難しいと言われており、時代がある程度異なるような場合に、問題作品やその材料の一部が「決してその時代のものではありえない」といった反証の方法として効力を発揮する。
問題の事例は、同時代作家の遺族筋から出てきた作品であるから、作品の額縁や木枠の古さ、画布や顔料分析などの検証で、<真作>と時代的な矛盾をきたすことはもとより少ないのである。しかも、来歴も当該作家のごく近辺にまで確かに遡れたから、信憑性も決して低いものとは言えない。
こうした状況の中で、作風は積極的に当該作家の作品とまでは言えないが、贋作とも断定できなかったとする。つまり、当該作家の真作かどうかを見極めるのが、きわめて難しいケースである。特にそれが、作風の定まらない初期作品のような場合はなおさらであろう。
これは、科学的検証をパスして、来歴調査も信頼性が高いとした場合だから、残るは、作風の判断だけである。つまり、これは、当該作家の様式判断ができる専門家に結論を委ねる他はないような事例である。
この場合、専門家(鑑定家)とは、作品の素材面での科学的検証や事実的・客観的な来歴を伏せておいても、作品の「表層」、すなわち画面そのものだけでも、その作品の作者もしくは工房等を判断する能力が、きわめて高いと世間一般に認められている人物を指す。そこでもし、この専門家(鑑定家)が、今、問題作品の真作の可能性は45%ほど、それ以外の作家の可能性は55%ほどと判断したとしよう。この結果を聞けば、学芸員は判断に困ってしまうだろう。
ところで、現実の日本の美術館学芸員は、一般に科学的手法による分析は他に委託するとしても、来歴調査と様式判断については、それらを一手に任されている専門家的存在と見做されている。だから、彼は何らかの結論を出さざるを得ない状況に追い込まれることもある。(もっともわが国の多くの公立美術館は、作品収集審査委員会などを組織していて、その委員会の決定を最終的な結論とする場合も少なくないから、真贋判定の責任はやや曖昧になる構造をもっている。)
上記の場合を、わが国の一般的な学芸員の立場から判断し、次のような結論を出したとする。すなわち、@学芸員は自分の「主観的な」様式判断ではやや引っかかるものを感じたが(すなわち真作の可能性は数字にたとえると45%程度)、A「事実的・客観的」な来歴そのものは、「作家周辺」にまで遡れ、それ自体には間違いがなかった。よってB「事実的・客観的な」来歴調査を優先させ、(おそらく)<真作>(だろう)という結論を出したとする。だが、これは正しい結論の出し方、判断の仕方であったろうか。
ところが、後で、その「作家周辺」を調べてみると、彼はあまり有名にならず、署名のない作品がいくつか遺族のもとに残されていたという事実が分かったとする。これはよくありうることだと思う。こうした場合が、特に要注意なのである。なぜなら、悪意のある売り手は、まさしく、ここにこそ目をつけるからである。
すなわち、犯罪を試みる人物は、署名のない友人作家の作品、これまで殆ど流通性のなかった作品を、さりげなく安く買い取り、(時には数人の仲介者を経た上で、)その友人作家の作品としてではなく、有名作家の作品だとして高く売り込もうとするであろう。
この場合、もし、この友人作家またはその家族や遺族がいい加減な人物だと、こうしたことを実行しようとする売り手にはきわめて好都合である。なぜなら、その作品の売り手と、この友人作家筋とは経済的な利益が共有され、暗黙のうちに、あるいは殆ど無自覚のうちに、共犯関係を結びやすいからである。
こうして、その悪意ある売り手は、次に「新発見」を期待する他の専門家・研究者・大学教授・学芸員あるいは同時代を生きた他の画家仲間を調べ上げ、彼らにその作品を<真作>だと言わせようとするであろう。必要なら政治家や様々な実力者を使って、彼らにそのように言わせ易い環境を整えようとするかもしれない。
これは、<新発見>を期待する「専門家の心理」や当該作家と時代を共にした「画家の権威」を利用して、新たに<真作>を作り上げてしまう最も効果的な方法であり、問題が起これば、その責任をこうした専門家や同時代の画家に帰してしまう最も簡便で確実な方法である。
いずれにせよ、これが、科学的には殆ど何の問題もなく、来歴も当該作家に繋がる問題作品が、専門家の保証つきで、美術雑誌に発表されたり、展覧会に出品されたりして、いつの間にかその作品が本物・真作として認知されてしまう仕組とプロセスの、考えられる最も見事な、そして危険な事例なのである。
それゆえ様式判断や筆跡鑑定をあまり信用せず、第三者が行なう科学的判定や取扱画商の信用度・実績、そして何よりも来歴調査に頼りがちな学芸員は、こうした仕組やプロセス、特に来歴調査による真贋判断そのものの危険性を予めよく承知しておかねばならない。
「様式判断は、結局主観的なものであり、真贋判定には、実はあまり役には立たないのではないか」という勝手な思い込みをし、広い意味での様式判断、その最も確実な成果が期待される筆跡鑑定にもあまり関心がなかったのが実はかつての私だった。そして、作品の価値判断も自らはあまり口にしないのが、歴史的資料を扱う学芸員としての当然の節度ある態度だとも思っていた。しかし、今思うとこれはきわめて危険な態度であったと反省するのである。
学芸員が専門家たりえるのは、まさしく他の専門家ができない様式判断を最終的にはできるからこそ専門家なのだと今は思う。彼は自らが心の中で感じた45%と55%の先の比率を「最終的に」もっと信頼すべきであった。(舟木力英)
通信No.8(2008.5.6)
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真贋問題雑考
今日、学芸員が真贋判定のトラブルに巻き込まれる事例は、あまり耳にしない。だが、それは、美術館が真贋判定など問題にならない高価で有名な作品のみを買っているということではないだろう。学芸員の真贋判定に誤りがないからなのか。これもそうとは言い切れまい。皮肉な見方をする人は、美術館にいったん入ってしまえば、皆本物になるからだという。
実は(現時点では)作者名を決定することができないような作品も美術館は収蔵することがあるし、昨今の財政事情では、美術館も安値だが優れていると思われるような作品や、やや危ないが魅力もある作品にも手を出さざるを得なくなるかもしれない。これからの学芸員が真贋判断のトラブルに巻き込まれる可能性は大いにあるのだ。同時にいよいよ学芸員としての真贋を見極める真骨頂が試される時代がやって来たとも言えよう。
画商さんが売りに出している作品にも、本当にその作品が当該作家の<真作>であるのかどうか、検証が十分でない作品がままあるように思われる。例えば、これは贋作ではないと思うが、ある有名な画家が描いた他の画家の部分的な模写作品が昨年秋ごろに売りに出されている例が見られた。これは、私にとって驚きだった。この作品が震災や空襲などによる焼失を免れて、やはり今でも存在していたのかという感動の驚きもあったが、さらに、もう一つの別な驚きもあった。
部分的な模写作品は、全体を模写した作品と違って、模写の対象となった元の作品が一般には気づかれないことが多く、この売りに出された部分模写も、それを扱った画商さんにまだ気づかれていないのかもしれない。もし、まだ気づかれていないのなら(余計な心配だと言わないで欲しい)、これを買う側は要注意であろう。もし学芸員がこの作品に眼を着けたのなら、その点は、一般の購入者よりも、よくよく注意しておかなければならない。価格もそれによって当然変わる可能性もあるからだ。
作家本人がかかわっているような展覧会は別としても、公的な美術館での展覧会に初出品の作品については、真贋判断を含め、何の説明も解説もないというのはよくない。美術史の専門家を加えた複数の有力大手画商が判断したから真贋問題など起こり得ようもないという態度は、権威主義的と批判されよう。学芸員は、こうした展覧会初公開の作品についてこそ、その来歴を含め、図録で解説を書くのが本領、見せ場だと思う。それに気づくのはほんの少数の入場者や図録の読み手だけであろうが、これはやはり大切にしていきたい。
別の美術館に収蔵されている作品を、安心しきって借用・展示するのも好ましくはない。学芸員のその借用の心理は分かるが、危険なこともある。私が見た例では、いくつかの類似作品があるものだったが、問題のその作品は、既に別の公立美術館に収蔵されている作品に外見上あまりにも類似しているものであった。芸術家が類似の作品を描く例は珍しくないが、この作品は、なぜここまで芸術家が自己模倣しなければならないのか理解に苦しむような作品なのである。それは本当に作者本人によるレプリカなのだろうか。私にはかねてからその疑念が解けないでいるものだったが、展覧会やその図録では何の説明も解説もなかった。その作品の裏側は見ていないが、そこに仮に同時代の画家仲間による<鑑定書>のようなものが貼ってあったとしても、あるいは、その来歴が画家友人周辺にまで遡れるようなものであったとしても、様式的に見れば、決してそれらだけで安心できるような種類の作品とは思われない。モティーフ・構図・色彩布置は殆ど同じなのに、なぜ、筆勢・筆法がここまで違うのか。私から見れば、その問題作品とその類似作品との間に、あるモティーフとある部分のブラッシュ・ワークの2箇所に不自然な食い違い、もしくは改変がある。その外は本人のレプリカなら別段模倣しなくてもよいような細部まで模倣しているのにである。
<鑑定書>そのものが全く意味をなさない偽筆であることもこの世の中にはザラにある。本物の<鑑定書>が付いている裏蓋を別の額縁に付け替えることだって容易である。そうすれば1点しかなかった本物からもう1点本物らしい来歴を持った作品が出来上がるかもしれないからだ。今日のネット社会では、有名作家の格安の作品が、偽筆の<鑑定書もどき>付きで出回っているようであるが、こうしたものの中には、たまたま見た私からすれば問題外のいい加減なものや、一目で贋作と判断できるものが出回っている。画家名と価格との関係だけから常識的に判断しても、もはや本物であることなど、到底ありえようがないほどのものが、それでもネット社会などではコレクター心理を巧みに刺激して、流通することがあるらしい。
もちろんこれらは来歴調査などするまでもないようなものであるが、中にはこうしたものの来歴調査によって、真贋の定かでない問題作品と格安の贋作に限りなく近い作品とが来歴を共有することが判明することもあるようだ。
これは何を意味するかと言えば、格安の贋作に近い作品によって、真贋の曖昧な作品、あるいは展覧会に出品されて<真作>と信じられそうになった作品が、限りなく贋作近くに後戻りしたということである。おそらく、その逆ではない。真贋の曖昧な作品が、格安の作品に<真作>の可能性をもたらしてくれるということは、殆ど期待しない方がよい。これを過剰に期待すると、コレクター心理を操られることになる。<贋作>と、<真贋の定かでない作品>とが、もし、来歴を共有することがあれば、<真贋の定かでない>問題作品をもう一度洗い直すべきだ。
真作を裏付けようとする来歴調査による真贋判断には、様式判断に疎い専門家や学芸員が陥り易いある危険性が含まれているが、逆に贋作の来歴調査は、真贋の曖昧な作品に思わぬ決着をつけてくれるのである。(舟木力英)
通信No.7(2008.4.29)
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中村彝とマネ
中村彝の作風は、印象派世代の画家では、従来、セザンヌとルノワールの作品との関連が大きなものとして論じられることが多いが、近代生活の画家・ドガやマネの芸術との関連も無視できないものがある。
彝の書簡集などで頻繁に名前が出てくるのは確かにセザンヌとルノワールであり、時には二人の芸術が対比的に論じられていることもあるが、ドガやマネの名前はあまり出てこない。
私が気づいたところでは、ドガの名前が彝の書簡に出てくるのは、大正8年7月15日と翌年8月19日の洲崎宛書簡であり、マネの名前が出てくるのは大正9年5月17日と9月2日のやはり同氏宛書簡である。ドガにせよマネにせよ、いずれの書簡でも、二人の芸術や作品について彝が積極的・肯定的に論じたものではない。むしろ二人の芸術は他の画家と比較されて、消極的・やや否定的に言及されている面がある。
しかし、彝のアトリエ内部の様子が分かる、残されている2種の写真を観察してみると、その壁に貼られていた裸体画の複製画は、ルノワールの作品ではなく、実はドガのパステル画の裸体作品であることが確認されたし(拙稿「中村彝と西洋美術」『茨城県近代美術館紀要』1996,No.4 )、彝の人物画に見られる未完成な手の表現やその他の作品に見られる彝のブラッシュ・ワークには、意外にもマネの筆法に非常に近いものが観察されるのである。
今回ここで、提示しておきたいのは、彝が未完成のまま封印して、最後までアトリエに残しておいたとされる、相馬俊子を描いた「婦人像」(メナード美術館蔵)と、マネの有名な「オランピア」やニナ・ド・カリアスを描いた「婦人と団扇(ニナ・ド・カリアス)」(1873‐74年作、オルセー美術館蔵)との関係である。

中村彝「婦人像」

マネ「婦人と団扇(ニナ・ド・カリアス)」
明治末大正初期の彝の作品は、確かに若い女性の半裸体を描いて、生命の高揚感や官能の喜びに満ちており(これは、わずかその10年後に見られる死をモティーフとした芸術ときわめて対照的である)、ルノワール芸術への憧憬が認められると言っても決して間違いではないが、生命の高揚感を見せる彝の芸術には、その一方で、駆け抜けるようなすばやい筆法があった。これは彝の最終期の作品にまで繋がっていくが、その線描に込められた倫理的・精神的な性格は次第に変質していったのである。
彝の「婦人像」(メナード美術館蔵)の背景を大きく分割する手法やソファの装飾文様(この文様は彝の他の作品にも何度か出てくる)の趣味は、マネの「オランピア」の背景処理や装飾文様の趣味といくぶん共通したものがあるが、モデルのポーズ(いわゆる鏡像関係であり、ドガは自作の作品相互に、こうした手法を頻繁に応用している)、髪型、やや不自然な黒い衣装、すばやい筆法、そして、なぜかモデルの顔立ちまで、私には不思議にマネの「婦人と団扇」を彷彿とさせるものがあるように思われるのである。
彝がマネの作品をどの程度知っていたかは、明らかではない。しかし、少なくとも、先の書簡に拠れば、「モネの家庭」を描いた作品は知っていた。おそらくこれは、1874年にルノワールとマネがアルジャントゥイユのモネの家を訪れた時に、マネが描いた作品であろう。彝はその複製画を当時の美術雑誌か画集で見ていたのだろう。
おそらく彝は、マネがジャポニスム趣味を絡ませてニナ・ド・カリアスを描いた「婦人と団扇」も、印象深く美術雑誌か画集などの複製画で見て、ポーズや筆法などを研究していたのではないか。いつか、そうした複製画や参考本が発見されることを期待したい。彝と直接・間接交流のあった画家の遺族がお持ちの品物に、彝の遺品なども紛れ込んで知られずに眠っているようなこともあると思う。(舟木力英)
通信No.6(2008.2.4)
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下村観山「大原の露」−県所蔵品に見る美術と文学

下村観山「大原の露」1900(明治33)年
世紀の変わり目、明治33年(1900年)に描かれた大きな作品。『平家物語』の「灌頂巻(かんじょうのまき)」に見られる<大原御幸>から題材をとったものである。描かれている二人の女性は建礼門院とお供の女房、大納言典侍局(だいなごんのすけのつぼね)。
建礼門院は安徳天皇の母、平清盛の娘で、壇の浦で入水したが助けられ、出家して大原の寂光院に住んでいた。そうしたある日、たまたまうしろの山に花摘みに出かけているとき、平家追討の命を下した後白河法皇が訪ねてくる(大原御幸)。頃は卯月(陰暦四月)二十日あまりのこと。このとき、女院の心は揺れた。
場面は、まだ山中にあり、建礼門院は花筐(はながたみ)、すなわち花かごとともに表現され、もうひとりは「爪木(つまぎ)に蕨(わらび)折添へていだきたる」姿で描かれている。
女院はまだ坐っているが、お供の女房は既に立ち上がって下方を見つめている。その日の不思議な予感に満ちた二人の姿を捉えた作品ではなかろうか。
以上は、観山の「大原の露」の例であるが、このほか、県近代美術館には美術と文学との関連を示した作品がいくつかある。木村武山の「イソップ物語」、小林巣居人の「よだかの星」や「水辺画巻」、芋銭の諸作品などである。
巣居人の「よだかの星」は宮沢賢治の作品から題材を採ったものであり、「水辺画巻」は霞ヶ浦の沈鐘の伝説などを含んでいる。
マネのリトグラフ「腕白小僧・犬と少年」は、ムリリョの「子供の乞食」から影響を受けた自作の油彩画をもとに制作した作品であるが、この少年のモデルは、一説によるとマネのアトリエで働いていた。この少年は、マネの油彩画「サクランボと少年」のモデルでもあり、その自殺がボードレールの散文詩「紐」に霊感を与えたというのも興味深い。
県近代美術館の所蔵品と文学との関連を探すのは楽な仕事ではないが、大切なことである。美術館来館者にとっても、楽しく面白い内容になるはずだ。展覧会やギャラリー・トークなどで新世代の学芸員がそうした研究成果を披露されることを期待したい。
愚生も今年の川上澄生展で、すばらしいストーリーの「雪のさんたまりや」が、澄生自身の創作によるものか、それとも他に典拠があるものか分からないでいたとき、実は典拠があって、それが隠れキリシタンの聖書である『天地始之事』であることに気づくまで、『新村出全集』から『白秋全集』まで迂回して、大いに労した。しかし、不思議にも図録印刷直前に『谷川健一著作集』を経て、『天地始之事』にたどり着き、補注に書き加えることができた(通信No.1参照)。その日、新発見の祝杯をあげ、高価ではない酒もなぜか美味しく飲めたことは言うまでもない。
(舟木力英)
通信No.5(2008.1.15)
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海外の美術事情・工芸事情1
アメリカが注目する日本の「徒弟性」-ハーバード大学セラミック・プログラムと備前展
例えば日本の東大に陶芸の工房があったとしたらどうだろう。政財界や様々な学問領域のトップを担う若者たちが、教養として土に触れ陶芸に親しむ。さらには有料で一般市民が学生らと一緒に同様の陶芸講座を受けることができるとしたら。そうした環境がアメリカには既に確立している。ボストンのハーバード大学にある陶芸スタジオにはロクロ、窯、釉薬室など、陶芸に必要な設備がそろっている。ここで学んだエリートたちが後に理解ある陶芸コレクターとなる可能性は大きい。
この陶芸スタジオで去る2006年4月、備前焼に関するディスカッションと日本・アメリカの作家による制作実演が行われた。このプログラムは、ボストン美術館で開催中の「現代の土:新世紀を拓く日本陶芸」展やボストン美術館のシンポジウムとあわせ、日本協会の後援や陶芸家ジェフ・シャピロの尽力により実現されたものである。プログラム全体のテーマは「備前:世代と文化の交差」。全体の進行はハーバードのナンシー・サルヴェイジ女史である。作家は日本から、人間国宝の伊勢崎淳はじめ、隠崎隆一、伊勢崎晃一朗、アメリカ側の作家はジェフ・シャピロ、ティム・ローウェン、ジョディ・ジョンストン。彼らには、隠崎、ジェフ、ジョディが伊勢崎淳の弟子、ティムが隠崎の弟子、晃一朗がジェフの弟子という師弟関係がある。討論のねらいの一つは、備前約800年の歴史の中で現代備前の陶芸家とその弟子達がどのように学び、作家として育っていくのか考えることにあった。
プレゼンの中心となった伊勢崎淳の話の趣旨は自身の陶芸家としての歩みである。戦後、作家といえる者が十人程しか存在しなかった備前で、父陽山の没後、形見分けにヘラを1本、兄に貰って独立。備前の窯焚きは一人では困難なため、手伝って貰う人を求めたことが弟子をとるきっかけとなった。今では「伊勢崎学校」と呼ばれている。朝と夕方掃除をすること以外、何も教えた覚えはない、自分の道は自分で見つけるしかないと述べた。 他の作家たちはスライドを用いて現在の仕事などを説明。日本で弟子入りしてよかったことは、作業の工程の一部始終をずっと通して勉強できること。弟子として過ごすことで制作に必要な工程を自然と体で覚えられる。現在、弟子たちはそれぞれアメリカ国内で穴窯、薪窯を持ち制作。ジェフ、ティムは各々既に弟子もいる。日本で学んだ陶芸家たちをきっかけに、我が国の新たな「徒弟制」の良さはアメリカにも普及しつつあるのだ。
ディスカッションの質疑応答の中で「なぜ伊勢崎淳が人間国宝に選ばれたのか」という質問があり、筆者が指名されたので二つの理由を挙げた。第一に、備前の伝統技法を用いながら造形的革新をもたらしたこと。第二に、国内外を問わず後進の作家を多数育てていること。しかもその作家たちの仕事が多様であること。それはここにいるジェフや隠崎らが証明している。備前焼で認定された作家は、最初の金重陶陽を含め5人おり、日本のどの地域よりも多いが、この二つの理由故に伊勢崎が認定された意義は大きい。伝統の継承をあくまでも創造性の展開とともに導いてきたことが日本の多くの陶芸家の中から伊勢崎が認定された理由ではないかと考えていると答えた。また、黒備前や塗り土の技法が話題の一つとなった。黒備前は伊勢崎淳をはじめ、弟子たちにも様々なかたちで受け継がれ展開されている。土を何より重視する備前の伝統にあってこれは将来の備前焼における重要な示唆を含んでいるであろう。午後はティムと伊勢崎晃一朗がそれぞれ制作実演を担当。ティムは量塊を刳り貫いて作るボックス状のかたち、晃一朗は手捏ねを基本にした茶碗などを制作。2作家の普段どおりの自然な仕事ぶり、リズムは実に見事なものであった。
さらに、同じマサチューセッツ州のラコステ・ギャラリーで時期をあわせ 「世代の交差点:備前の展開」展が開催された。本展は日本協会、ボストン美術館、ハーバード大学がスポンサーとなって実現されたもの。日本陶芸は今アメリカで売れ行き上々だが本展は販売を主目的とした展覧会ではない。展覧会タイトルが示すとおり、現代の備前焼がどのように世代を継いで受け継がれ革新的に展開しているか、そのライブの姿を、日本と、日本で学んだアメリカの作家の作品で紹介したものである。出品作家は伊勢崎淳・晃一朗、ジェフ、隠崎隆一、ティムの5名。特に隠崎に学んだティムに注目した。
彼は米国各地の工事現場などで採取した土を精製せずに原土に近い状態で使用、しばしば5センチを越える肉厚で豪快な造形を展開している。ティムによれば、ゆっくり温度を上げれば、石が混じっていようと肉厚であろうと、焼成可能なのである。NY郊外のティムの工房も訪ねたが、薪は松だけでなくオークやメイプルなど周辺に豊富にある木材を利用し、窯焚きをしているのだという。アメリカには広大な土地があり、斜面さえ見つければ日本よりむしろ穴窯も築き易い程だ。
ヴォーコス以来のアメリカ陶芸の流れ−つまり抽象表現主義からポップアートなど現代美術の影響、フィギュラティブな傾向、あるいはそれらに対する反動といってよい機能性(器)への回帰、一方で民芸陶器の独走−というアメリカ陶芸のイメージが、本展を見ただけでも鮮やかに覆る。アメリカ陶芸は今まさに進行・展開中だ。伊勢崎淳の認定理由として常日頃筆者が口にしていた「造形の革新」と「後進の育成」とは、本展がライブで見せた国境を越えた世代の拡がりに、一層リアリティをもつ。 アメリカでも日本でも「現代備前」は、今まさに現在進行形である。特に、アメリカが、日本の個々の陶芸作品に惹かれるだけでなく、そうした作品が生み出される背景としての日本の「徒弟性」に注目していることに、改めて歴史が育んできたものの大きさをかみしめている。(外舘和子)
通信No.4(2007.12.10)
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ルノワール、茨城とパリ −マドモワゼル・フランソワとは誰?

茨城県近代美術館所蔵の「マドモワゼル・フランソワ」(画像左)は、筆触分割などの印象主義技法から遠く離れ、ルノワール最晩年の特徴をよく示しているように見える。赤や黄やバラ色を主調とし、色数は必ずしも多くない。筆法は大きく柔らかで流麗である。カンヴァス地を透かして見せるほどの薄塗の部分も多い。しかもその薄塗の色調を何度か重ねて微妙な諧調を出している。
さて、この肖像画のモデルはフランソワ嬢ということであるが、詳細は不明である。ある研究者によれば、この作品の最初の購入者は、フランソワという人である。従って、モデルのフランソワ嬢と最初の購入者のフランソワには密接な関連が予想されるが、これだけでは何とも断定はできない。
ところでパリのオランジュリー美術館にルノワールの「バラの髪飾りをつけたブロンド娘」という作品がある。この作品は、1988年の茨城県近代美術館開館記念展「モネとその仲間たち展」に出品されたことがあり、同館の上記作品との比較の上できわめて重要なものであるから、筆者はそのことについて図録で簡単に触れておいたことがある。
パリの「ブロンド娘」は、通称デデという、画家お気に入りのモデルであって、女優としては、カトリーヌ・エスラン(1900〜1979)という名で知られている。画家の息子で有名な映画監督のジャン・ルノワールと結婚した女性だ。
茨城の「フランソワ嬢」は、ブロンドではないが、きわめて興味深いことにデデと同じ髪飾り、同じ衣装を身に着けている。この衣装はジプシーのそれだという人もいる。しかし、もし、「フランソワ嬢」がフランソワという人による注文肖像画とすれば、デデと彼女とが同じ髪飾り、同じ衣装を身に着けているのは、いささか奇妙なことではないか。
一般に注文肖像画というものは、モデルもしくは発注者が望むような姿で描いてもらうものである。だが、ここではフランソワ嬢は、その髪飾りや衣装から見て、モデル自身の趣味を反映したものというより、明らかに画家自身の好みに任されているのである。ルノワールの他の作品との比較からそう思わざるを得ない。そうするとこの作品が、本当に注文による肖像画であったのかどうかを含め、この作品を改めて考え直してみる必要があるように思われる。
今、仮にこの作品がモデル側からの注文による作品であったとしても、髪飾りや衣装の他、口唇の描き方などを見ると、これらはもはやモデルの個性に由来するというよりも、むしろルノワールが描いた他の多くの女性像に共通して観察される画家晩年の一般的な特徴を示すものに過ぎないことが分かる。そこから筆者はかつてモデル側よりも画家の優位、近代における画家の個性の尊重、その結果としてのモデルに対する個性尊重の相対的な低下と注文肖像画の衰退、すなわち芸術家優位の思想の具体的な現れを見たのであるが(「アートフォーラム」No.16,茨城県近代美術館発行1991年)、そうした解釈だけで果たしてよいものかどうか。
この作品は様々な展覧会に貸し出されているが、まだ、その後の研究の展開は見られない。ルノワールのカタログ・レゾネが完成されていないためか、ルノワール研究の困難さが思い知らされる作品でもある。(舟木力英)
通信No.3(2007.11.20)
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モネ「ポール・ドモワの洞窟」―俯瞰的な視点による空間破壊
モネの1880年代の作品である。モネの80年代の作品というのは、セーヌ周辺を描いた70年代の川辺の景色に対して、海景画が多く、しかも水平線が画面の上方にあって、俯瞰的な視点がとられているものが目立つ。これはジャポニスムの影響と見られ、新国立美術館のモネ展に標記の作品が貸し出された時にも、そうした分類でこの作品が展示されていた。
ジャポニスムの影響としての俯瞰的な視点、水平線(地平線)の上昇(江戸から明治初期にかけての日本美術では逆に西洋の影響によってそれが下降していく傾向がある)というのは、今日ではほぼ定説に近いものとなっているが、30年ほど前はまだ必ずしもそうではなかった(拙稿「クロード・モネの水辺風景画のモティーフ―日本版画との比較」『美術史学』創刊号/1978/東北大学美学美術史研究室発行)。
水平線(以下水平線という時、地平線も含む)が画面上に存在する時、それは画家の視点の位置を示している。画家が高いところから俯瞰的に風景を眺め、その光景を画面上に表現しようとすると、当然、水平線は画面の上方に位置するか、描かれなくなってしまうであろう。それが描かれている場合、水平線の位置こそが、画家の眼がある高さなのである。
西洋のルネサンス以来の線遠近法は、地上に立つ画家の視点を確固不動の絶対的なものとして、つまり文字通り自我を持った一人の人間を中心として(人間中心主義の視点)、世界を眺めるから、山の上のような高いところにでも登った時でもなければ、俯瞰的な視点はとらない。
その結果、画面上に表現される水平線の位置は、地上に立った画家の背丈ほどの位置から眺められた世界が描かれるわけであるから、当然水平線は、画面の中央部よりも概ね低い方に位置していることが多い。若い頃のモネの師であるブーダンなどの作品も、低い水平線の作品が目立っている。
ところがモネの80年代の作品は違う。80年代のモネはいかなる精神的な欲求によるのか定かではないのだが、断崖絶壁のあるような海景主題を雄々しく求めていく。眩暈のするような断崖絶壁のモティーフや奇岩のモティーフもある。また、断崖絶壁から俯瞰して、海面そのものを描く構図も多い。そうすると、水平線は上昇して、画面の上方に位置することになる。
モネの「ポール・ドモワの洞窟」はそうした一連の作品の1点なのである。
90年代以降のモネは連作に向かい、20世紀を控えて睡蓮の時代に入る。睡蓮の連作は、近接した視点からの俯瞰的な構図によって、水面上の水と光のドラマを描く。そして睡蓮の終局的な作品は、パリのオランジュリー美術館の巨大な作品となるが、この作品は、楕円形の壁面空間に曲面を結ぶ形式をとっているから、ルネサンス以来の線遠近法的な理念、すなわち確固不動の唯一の画家の視点(人間中心主義の視点)という観念は、完全に揚棄されているのである。モネは、おそらく、ジャポニスムの影響による俯瞰的な視点の導入によって、西洋500年に渡るルネサンス以来の線遠近法的な視点による空間を、殆ど無自覚のうちに破壊し、新しい空間を産み出そうと苦闘していたのである。
(舟木力英)
通信No.2(2007.11.9)
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中村彝の名前の由来
茨城県を代表する洋画家は中村彝(つね)であるが、どうしてこんなに難しそうな名前がつけられたのであろう。
彝には二人の兄と二人の姉がいた。兄たちの名前は、「直」と「中」であり、簡明な一文字だけであることは共通しているが、難しい文字は使っていない。彝は中国古代の祭器を意味する語であることは、漢和辞典を見ればわかるが、それだけでは名前の由来の説明にはならない。
彝よりも5年前に生まれた版画家・洋画家に山本鼎(かなえ)がいるが、これも中国の古代祭器が人名に使われている例である。「鼎」は次第に「尊いもの」「優れたもの」を意味するようになり、人名に使われるようになったと思うのだが、「彝」にも「不変」や「法則」「人の守るべき道」という意味があり、そういう意味が込められて、その名がつけられたのであろう。
しかし、それだけでも「彝」の名前の由来の説明としては十分でない。実は彝の名前は幕末の水戸の思想に関係していると私は思う。
彝は水戸の下級士族の出であるが、祖父は中村三五衛門といって藤田東湖の『回天詩史』にその名前が挙げられている。その『回天詩史』に「彝」の字を見かけた覚えがあったので、再びそこを探してみると、それは東湖が、会沢正志斎の文献として『迪彝編(てきいへん)』を挙げている部分だった。「迪彝」とは「人の守るべき道を進んでいく」というような意味であろう。正志斎には『下学邇言』という書物もあってここにも「彝倫」という言葉が何度も出てくる。
さらに東湖自身の有名な「正気の歌」にも「すなわち知る、人亡ぶといえども英霊未だかつてほろびず。長く天地の間に在り、凛然として彝倫を叙(つい)ず」と「彝」の文字が見られる。また、東湖の最も重要な『弘道館記述義』にも「彝倫」の言葉が見出せる。
このように見ていくと後期水戸学の代表的な二人の思想家の著作に「彝倫」が強調されていることがわかる。つまり、弘道館で学んだ水戸の士族たちにとって「彝」の文字は決して馴染みない文字ではなかったのである。私はそう推測する。
中村彝の「彝」という名前は、「彝倫」が強調されている後期水戸学の思想的環境の中でつけられたのであろうと私は思う。
因みにその実行者とはならなかったが、井伊大老暗殺計画に加わった水戸の過激派に野村彝之介がいる。この人は野村鼎之介、野村鼎実、野村彝之介鼎実とも関連文献では記されており、中村彝が生まれた時にまだ生きていた。晩年常盤神社宮司を務めた人である。野村の名前は「彝」と「鼎」が同根であることを示していてこれも興味深い。(舟木力英)
通信 No.1(2007.11.3)
論考紹介
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「川上澄生の作品 ― 受け容れられない愛のモティーフ」
2007年度企画展『木版画の詩人川上澄生』図録(茨城県つくば美術館発行)で標記の論考を発表しました。この論考は、澄生の版画・絵本・詩・短歌の中で共通して見られる特徴的な「受け容れられない愛」のモティーフをめぐって、様々な作品を取り上げ、それを多角的に論じたものです。その具体的内容としては、作品に即して言えば、以下のようなことが言及されています。
(1)澄生の絵本『にかのる王傳』は、「東方の三博士」の変形譚であるが、その物語の内容骨子はヘンリー・ヴァン・ダイクの『もう一人の賢人』に酷似している。しかし、澄生作品の典拠が直接または間接にこの本にあるかどうかは不明である。
(2)澄生の最初の詩集『青髭』は、「受け容れられない愛のモティーフ」の典型的な作品のひとつで、詩と版画と音楽とが総合された趣がある。それは、主題の提示・展開・終結部が見られる音楽的構成と、愛についての音楽的比喩や連想を含む一連の作品として制作されている。
(3)澄生は、55年間も「受け容れられない愛」(女性ばかりでなく、母や父からの愛も含む)を抱き続けてきた芸術家であり、その思いは、イエスの生誕に間に合わず、33年も遅れてきて、かえって、その磔刑に立ち会うことになった「にかのる」王の心情にも重ねることができる。
(4)澄生の絵本『雪のさんたまりや』の主題は、直接的には、隠れキリシタンの聖書と言われる『天地始之事』に典拠を持つものに相違ない。このことは、@蝶がマリアの口から入って処女懐胎した、Aマリアが焦がれ死にした「ろそん」の王と天上で結婚した、B牛と馬とが温かい息を吐きかけて幼子イエスを凍え死にさせなかったという、いずれもきわめて印象的で重要なモティーフが、先の隠れキリシタン写本に見出されることから検証される。
以上のほか、この論考では澄生の詩におけるフェティシズムやそれに結びつく探偵趣味、そこから発展していく空想上の殺人趣味やストーカー趣味などについても言及しています。
なお、上記のうち(4)は、当該図録論考の「補説」で明らかにしています。(舟木力英)
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